「いつも同じ目線で、ありのままでいたい(謙一さん)」「お客さんの小さな変化を気にしていたい(舞さん)」(撮影:須藤明子) 画像を見る

【前編】「ホスピタリティは高く、敷居は低く」元社会福祉士が作った“誰も取りこぼさない”角打ちから続く

 

「角打ち」とは酒店が店舗に設けた酒を飲める場所のこと。酔っ払ったオジさんが集うイメージは昔のこと。いまやおしゃれなスペースが増えているのだ。

 

なかでも岩田屋商店は最先端。子どももソーダで乾杯なんてビックリだ。老若男女問わず、どんな人でも大歓迎。

 

そして、困りごとや生きづらさを抱えた人が、そっと立ち寄れる場所でもある。福祉ひと筋でやってきた夫婦・謙一さんと舞さんが、角打ちを開いたのも、そんな理由からだった。

 

岩田屋商店は1935年、謙一さんの祖父が創業。祖父が他界したのちは謙一さんの父母と伯母が、店の看板を守ってきた。謙一さんは90年を超す歴史を誇る店の3代目として、1982年に生まれた。

 

「姉が2人いる末っ子の長男。待望の男の子ってことで、甘やかされ、怒られることもなく、自由奔放に育ちました」

 

謙一さんには幼少期の、忘れ難い強烈な思い出があった。

 

「幼稚園の年中さんのころ。母に連れられ、浅草までよく買い物に行ったんです。自転車で隅田川を渡っていくんですけど、川のほとりにずらっとブルーシートのテントが並んでいて。見ると、そこに住んでる人たちが大勢いる。幼心に『なんだ、これ!?』って。もう、それがすごく気になって。『なんで、この人たちはこういう生活をしてるんだろう?』って」

 

受験をして私立中学に入学したのちも、かつて抱いた疑問は消えない。むしろ興味は増していった。

 

「高校生のころから、僕なりにブルーテントを回りました。私大の付属高でしたけど、自分の意思で社会福祉学科のある別の大学に進学して。大学では、必要な人のもとに直接出向き支援する“アウトリーチ”のサークルを一人で立ち上げ、カップ麺を手土産にまた路上生活をする人たちのところに通いました。幼いときに衝撃を受けた『なんで、この人たちはこういう暮らしを?』という疑問の、答え合わせをずっとしてきた感じです」

 

いっぽう、妻の舞さんは1983年、高知県で生まれた。教員だった父の仕事の関係で、小学校入学と同時に埼玉県に移り住んだ。

 

通った小学校では、養護学校との交流があった。舞さんは率先してボランティアにも参加した。

 

「車いすを押したり、一緒にレクリエーションをしたり、時には食事の介助をしたり。すごく楽しかった。そのころから、誰かの力になるというか、私がすることで誰かが喜んでくれることがすごくうれしくて。将来はそういう仕事に就きたいと思うようになりました」

 

舞さんは謙一さんと同じ大学に進み、同じゼミを受講した。

 

「ただ、夫は私の1つ上。学年が違うから、大学時代はとくに面識があったわけではないんです」

 

それでも、2人はともに社会福祉士の資格を取得し、社会福祉法人に就職するという、同じ目標に向かって歩んでいた。そして、2人の出会いには、謙一さんが学生時代に遭った事故が一つの契機になった。謙一さんが振り返る。

 

「大学4年の夏に、社会福祉士の資格を取得するため、足立区内の施設での実習に、バイクで通っていたんです。その帰り、交差点を直進する僕に、右折の4トントラックが突っ込んできて。僕は20メートルも吹っ飛ばされて、ガードレールにグチャッと……」

 

謙一さんには、そこから先の記憶がない。左脳脳挫傷で2週間も意識が戻らず、生死の境をさまよっていたからだ。

 

「偶然、事故現場にプライベートで居合わせた救急救命士の人がいて。迅速な処置をしてくれたことが幸いでした。でも、本当に奇跡だったと思います」

 

この年の実習履修は諦めざるをえなかった。だが、その結果、1年遅れで就職した社会福祉法人で、謙一さんは同期の同僚として、舞さんと出会うことに。

 

■ゴールまでの高いハードル。そのための“誰かと繋がれる場所”を作ることはできないだろうか

 

2006年4月。2人は、都内で複数の施設を運営する社会福祉法人に就職。謙一さんは2019年まで、路上生活者の緊急一時保護センターなどの仕事に従事。いっぽう、舞さんは生活保護の更生施設などで約16年間、働いた。のべ数百人を支えた舞さんは、次のように話す。

 

「病気や障がいで働けない、家族から見捨てられた、あるいは刑務所から出たばかりで仕事がないなど、利用者さんはさまざまな理由で生活保護を受けている。10人いれば10通りの課題があって。私たちは伴走しながら、その課題を一緒に解決していました」

 

理想のゴールは住まいを見つけ、仕事に就き、生活保護から脱却すること。だが、そこまで到達できるケースは、決して多くない。

 

「その人なりに自立を果たし施設を出ても仕事が続かない、ふたたび病に伏せる、お酒に逃げるなど、元の状況に戻ってしまう人もたくさん見てきました。なかには、決して多くはありませんが、精神疾患などが遠因で、不意に亡くなられてしまうという、たいへん痛ましくつらい結末も……」

 

福祉の仕事に長く従事した人たちが抱く“やるせなさ”を、謙一さんもずっと感じていた。

 

「僕は生活保護の更生施設でも働きましたが、それって、本当に“困り切った人”が対象なんです。路上生活の人の巡回相談もしてきましたから、それこそ、何万人もの生活歴を聞きながら、いつも考えていたのは『この人、ほんの1カ月前に誰かに相談できたら、誰かと?がれる場所さえあったら、ここまで困った状況にはなっていないんじゃないか』ってこと。悔しい気持ちがありました」

 

もちろん、謙一さんは「困り切った人を支える福祉は重要」と理解している。そのうえで、漠然と思っていた。自分自身がその相談できる“誰か”になる、あるいは“誰かと繋がれる場所”を作ることはできないだろうかと。

 

同じころ。謙一さんの地元・東向島は、それに実家・岩田屋商店も、かつてのにぎわいをすっかり失ってしまっていた。

 

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