「ユニクロは本当に世界中にあるので、『A BATHING APE(R)』も世界にお店はありましたけど、あらためて『自分ってアングラだったんだな』って」

 そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第35回のゲスト、ファッションデザイナーのNIGO(R)(44)。原宿裏通りの店で生まれ、瞬く間にその名と猿のアイコンが世界中で知られる存在となった「A BATHING APE(R)」の創業者だ。25年前、NIGO(R)は中山の専属スタイリストをしていたという。そんな2人のぶっちゃけトーク、スタートです。

中山「『A BATHING APE(R)』(以下APE)の爆発的な人気は世界にも広がっていったわけだけど、海外だとどんなところに出店していたの?」

NIGO(R)「ニューヨークやロサンゼルス、ヨーロッパ、香港にも出して、どこも大当たりしました。ニューヨークのお店は、オープン前に500人くらいの行列ができて。アメリカには並ぶ文化というのがなかったらしいんですが、並ぶ行為自体を『クールジャパン』と言って、日本のカルチャーの1つとして楽しんでいましたね。いちばんすごかったのは香港で、1千500人くらいの列ができて大フィーバーでした」

中山「その人気の流れが変わるきっかけというのは何だったんですか?」

NIGO(R)「リーマン・ショックですね。自分の中では、そうした世の中の景気に左右されるものとは思っていなかったんですが……」

中山「いつの間にか、世界の景気に左右されるほどの存在になっていたんですね」

NIGO(R)「そうですね。そのときは、借金もあったし、なかなかしんどかったです。ただ、今後のことを考えたときに、普通は“どれだけキャッシュインできるか”が重要になるんですけど、僕はキャッシュインよりも、とにかくリセットしたいと思ったんです」

中山「お金よりも区切りをつけたい、と」

NIGO(R)「はい、当時39歳だったので、ここでちゃんと終わらせられれば40歳からもう1回新しく何かが始められるんじゃないかなって。それで、香港のビジネスパートナーだった企業へ直接話をしに行ってブランドを買ってもらうことになりました」

中山「せっかくここまでやったのに、という気持ちや、今後の不安はなかったの?」

NIGO(R)「うーん、まったくなかったですし、今もないです。自分はまだまだやれる、って根拠もなく思ったりしていて」

中山「あのころ、何度か食事をしたりしたけど、NIGO(R)くんはどこか疲れた感じがしたね。今のほうが断然顔色もいいし、生き生きしていると思う」

NIGO(R)「それ、よく言われるんですよ。当時は、洋服も売れていたし、もちろんいい気にもなっていたと思います。ダイヤをいっぱいつけたり、歯にダイヤを埋めたりとか派手なこともさんざんして。それはそれで楽しんでやっていましたけど、今それをやるか、といったらもうやらないというか」

中山「自分であって自分じゃなかった?」

NIGO(R)「はい。そうしたことは、ブランディングの1つだったんでしょうね。若者が憧れる対象でいることが必要だったというか。成功者、いわゆる成り上がりのアイコンだったのかもしれません」

中山「そこも含めてNIGO(R)だったわけだ」

NIGO(R)「だからAPEを手放して、地に足が着いたというか、人間らしくなったと思います」

中山「再びスタートを切った今は、どういう気持ちで洋服を作っているの?」

NIGO(R)「自分のブランド『HUMAN MADE(R)』は、名誉挽回というか、APEのときは時間的にどうしてもこだわれなかった細部まで考えて作れていて充実していますね。1人のデザイナーとしては、アディダスやユニクロで仕事もさせてもらっていて、こちらはすごく勉強になっています」

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