《津波 母残し…泣いた日々》(読売新聞)、《動けぬ母に最後の言葉》(朝日新聞)。3月12日、主要新聞の朝刊一面を19歳の少女の写真が飾った。前日に千代田区・国立劇場で開催された東日本大震災追悼式で、宮城県遺族代表としてスピーチした菅原彩加さんの記事だ。

「足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けてみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。(中略)母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。『行かないで』という母に私は『ありがとう、大好きだよ』と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました……」

 切々と読み上げられる彼女の衝撃的な体験は、とかく4年前の悲劇を忘れがちだった多くの国民にも、あの日の“地獄絵図”をまざまざと思い出させた。11年5月、菅原さんは仙台育英学園高校に進学。当時の担任教師だった石山かおりさんは、こう語る。

「震災直前の2月、菅原さんが新入生説明会にお母さんと一緒に来ました。お母さんと笑いながら話していた姿をよく覚えています。とても仲が良さそうな親子だったのに、震災であのようなことになってしまって……。『今でもお母さんのことを思い出して、時々泣いてしまう』など、胸の苦しみを語ってくれることもありました」

 菅原さんは日本だけではなく、海外でも被災体験を語るようになった。その数は世界7都市で50回にも及ぶという。「人生は短いんだから、いろんな人に会ってほしい」という亡き母の生前の言葉が、背中を押してくれた。さらに前向きに生きるためにスイス留学にも旅立った。生き残った唯一の家族である祖父に、話を聞いた。

「私にとっても、大震災で3人もの肉親を失った体験はあまりにも過酷でした。それは当時中学3年生だった彩加にとってはなおさらのことだったと思います。実は彼女は震災体験を語ることは、(11日の)追悼式典のスピーチで最後にしたいと考えているんです。彩加は4月から東京の大学に進学します。そこで一区切りつけるようです。将来何をしていくかは彼女自身が決めていくことですが、強く生きていってほしいと願っています……」

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