■時には衝突も…「僕が子離れできずにいた」
羽生がオーサー氏の指導を受け始めたのは’12年4月からだ。
「当時、17歳の羽生くんは『ソチ五輪に出て、平昌五輪で金メダルを取る』とブライアンに言ったそうです。それを聞いてブライアンは『いいね、いいね。できるね』と答えたといいます」
その後、オーサー氏の指導のもと急成長を遂げ、ソチでも金を狙うことに。五輪2連覇につながっていくわけだが、羽生にとってカナダでの日々はスケート一色。
「ブライアンが食事や遊びに誘っても、絶対に羽生くんは来なかったそうです(笑)。もちろんほかの誰が誘っても行かない。ほかの生徒は毎年夏、ブライアンの別荘に行って一緒に湖で泳いだりするんですが、羽生くんはそれにも来ない。練習以外は外出せず、すべてをスケートに懸けている。すごくストイックです。ブライアンも寂しがったりせず、“それがユヅルだから”と理解していたと思います」
時には意見が衝突したことも。
「ブライアンは『最初は僕のほうが子離れできずにいた』と言っていましたね。コーチとして『こうしたほうが勝てるよ』と助言すると、『でも僕はこうやりたい』と羽生くんが言う。そんなふうに相いれない時期もありながら、お互い歩み寄るという時期もあって、それを繰り返してきたんです。まるで、ぶつかり合いながらも成長していく親子関係のようですよね」
オーサー氏は羽生のコーチとして、重圧も感じていたそうだ。
「彼は『ユヅル・ハニュウはひとつのブランドのようなもの。僕自身もかつてない重圧を感じていた。僕まで監視されているような気がした』とも話していました。羽生くんを指導するということは楽しいことである一方で、ものすごい責任とプレッシャーを感じていたようです。やはり五輪となれば、コーチの一言で運命が変わってしまうこともありますから」
コロナ禍に入った’20年以降、羽生は仙台で練習をすることに。カナダのオーサー氏とはリモートでやりとりを続けるなかで、’22年2月の北京五輪を迎える。この五輪でオーサー氏は羽生の演技するリンクサイドに立たなかった。
「北京五輪の直前になって、羽生くんから『一人でやります』と伝えられたそうです。ブライアンにしたら本音はサポートしたかったかもしれません。でも、『27歳で迎える五輪で、しかも3回目。口出しするものじゃないとわかっていた。たぶん最後の五輪だから、ユヅル本人がかじ取りをしたいと思うなら尊重することにした』と言っていました。
以前、ブライアンが指導していたキム・ヨナは、バンクーバー五輪で金メダルを取った後に、理由がわからないままケンカ別れのようにカナダから去ってしまった。その経験があるから、ブライアンは違う国籍で違う言葉を使う生徒の気持ちをコントロールするのは難しい、ということもわかっているんです。だからこそ、『ユヅルが“一人でやりたい”と伝えてくれたから、それでいいんだ』と言っていました」
野口さんはブライアンから羽生へのメッセージも託されたという。
「『自分らしく、ユヅルらしく。これまでと違って順位とかわかりやすい評価がないだけに、自分がやっていることが正しいか迷うこともあるかもしれない。そんなときは、自分らしくある限り、成功なんだ』と。そう伝えてほしいと言っていました。『ユヅルがコーチになるかは別にして、一緒に子供たちを教える機会があったら、それ以上の幸せはない』という夢も語っています」
衝突も経てきた2人。笑顔で抱き合いながら、10年間をねぎらい合う時間は、きっともうすぐだ。