■善意とは、その瞬間だけのことではなく、その後に起こるリスクも含めて覚悟すること。
《その後も被災地の各地の様子を定期的に見に行った。定期的に被災地に行って、募金活動や支援活動などを共にやっていた新潟の仲間の一人と合流した。彼もまた、ずっと時間を見つけては被災地で活動を続けていた。そんな彼に「ボクらは個人でたくさんのカネを出し、被災地に大量の物資も運んだ。でも、あそこまで叩かれて、なぜ、まだボランティア活動を続けられるのか?」と話をした。
彼はボクのことを兄さんと呼ぶ。そんな彼が答えた。「兄さん、オレはやりたいからやってるんだよ。誰かに褒められたくてやってるんじゃない。オレはこうやってる自分がカッコいいと思ってんだよ」と。「何もしない口だけの外野から、意味のわからない文句を言われることがあるけど、オレはこれをやってる自分をカッコいいと思っているからさ」と言われたとき、大きなハンマーで殴られたような衝撃を受けた。『そうだよな、やりたいからやったんだよな…』と。行動した自分自身を褒めてやれる自分がいる、それで助かった人がいる。『やりたいからやった、それで十分。それ以外の言葉は必要ない』と。
それ以降、ボクは自分のやったことに対し、常に一言で言うようになった。メディアというものは綺麗なストーリーを求めたがる。ボクらに熱く語ってもらいたいわけだ。だがボクはそういう[誰かを助けたい]のようなメディアが大好物の[お涙頂戴物語]を語ることはなくなった。世の中に綺麗事が必要なこともわかるが、ボクは一切それらの理由を熱く語らず、「自分のエゴでやっている」「やりたいからやっている」と言うようになった。卒業式ライブにも色んな理由はあるが、世の中に対してボクが発言するのはもうシンプルに「やりたいからやってる」「ボクのエゴでやっている」とだけ言うようになった。
2011年に、YFC【YELLOW FRIED CHICKENz】というバンドを組んで、ワールドツアーをしている最中のことだ。フランスのカフェでメンバーとボランティア活動について話したことがある。メンバーも当然にゴシップ誌からボクが散々叩かれていたことを知っていた。そのことを質問してきた。「あれは辛くないですか?しんどくないんですか?腹も立つし、苦しくないんですか?」と。
すでにボクは、完全にそれらの葛藤を自分の中で解決できていた。逆に彼らに質問をした。「もし車の運転をしていて、目の前に車線変更ができない中年女性が運転して走っていたら、どうする?」と。全員「スピード落として入れてあげる」と答えた。「なんで?」と聞くと「善意」「かわいそうだから」と。話を続けた。「だが、車線変更もできない人を前に入れるということは、その後に事故が起きる可能性もある。彼女を自分の前に入れた直後に彼女が急ブレーキをかけて、その女性の車にオマエの車が当たったとする。『アンタ、どこ見て運転してるのよ!』と怒鳴ってきたとしたら、その人を自分の前に入れた自分に後悔しないか?」と聞いた。
全員が「うーん」と考え始めた。「善意とは、その瞬間だけのことではなく、その後に起こるリスクも含めて覚悟すること。そのリスクも受け入れて初めて善意が成立する。ボランティアとはそういうもんだ。ボランティアをやっていると、世の中のどうでもいい何もしてないヤツらにまで色々と言われることもあれば、理解されないことも多々ある。ソイツらは一切動きもしないし、明らかに他人事という人間に限って人の汗のかき方に文句を言うんだ。こういう世の中の人間に対して腹を立てるならそんな善意はやめた方がいい」と。全員が口を閉ざした。
[善意]という言葉は非常に難しい言葉だ。善意でやっているならリスクを全部受け入れなければいけない。もちろん、善意を否定しているわけではない。SNSの発達により、善意でやったことが多くの顔を見せない輩に汚される世界になったことを認識しなければならない。そんな世界にボクらは生きている。だからこそ、「やりたいからやっている。ボクのエゴでやっている」とボクはそう答える》
15回目となった「卒業式ライブ」は、彼の固い信念に基づいていた――。