山崎 山川健一氏のコーラスもやりましたね。作詩・作曲家だけに甘んじるのが嫌だったか021_3 ら。そのころ2年に3枚というスタンスでアルバムを出していたんですが、だんだん年1枚も出なくなったのが85年以降ですね。だから、10年間は多分できていたと思う。84年ぐらいからバンドをやったり、他の事務所に行ったりしていました。それから10年ぐらいはいろいろだけど、91年に芝居を1回やったので。そのときはもう相当まずくて、活動する場がないときだったから、事務所がやっていいということになったのかもしれない。作家としてよりは、芝居に出て歌えるほうがいいというか。私は暗くて歌う場がないと事務所が言っていたとき、渡辺えりさんが「ハコちゃんの歌を使いたい」とすごく求めてくれたんです。作家の世界というか、芝居の世界で需要があったわけですよ。生で出てくれたらもっと嬉しいという人たちが芝居の世界にいる。それが嬉しかったです。もうネクラと言われて、「音楽の中では方針変えるなり、キャラを変えるなりしないと君はだめだ」みたいな雰囲気になっていたから。「パロディーでしかウケてない」とか。えらいショックだったんですね。そのときに、渡辺えりさんだけは、「その暗さが好きなのよ」と言う。「その暗さが私たちの芝居では絶対に不可欠だ」と。「芝居は皆ハコちゃんのファンだ」と力強く言われて、「じゃあ、出ようかな」。「セリフはなくていいから、歌うだけ歌って」と言われました。嬉しかったし、支えになりましたね。皆にいらないと言われ、自分にはニーズがないとスネていたけど、「そんなふうに思ってはいけなかったんだ」と反省し、「自分がハコを大事にしなきゃいけない」と気づきました。それで、自分が自分の一番の応援団長になると決めたんです。えりさんになってもらってはいかんのだと思って。「私が自ら、えりさんの前に立たなきゃ。いけなかったんだ。そうすれば、音楽の世界でも、えりさんの前でもやっていますよと言える」。だから、事務所が解散したときに一時はめげたけど、「いや、だめだ。あの応援団長をやめてはだめなんだ。スタッフがいなくなったら、自分が応援団をやればいいんだ」と自分を奮い立たせることができた。プロモートでもなんでも、自分が応援団長だったら、本人が引っ込むわけにはいかなくなるだろうということで、ふたりの自分を抱えてやった。
[E:note]80年代の後半は、いわゆるフォークも、すごく軽くて、例えば愛だ、恋だ、であったり とか。そういう社会風潮の中で「自分が歌っていくんだ」という気持が、そんなふうに言われることで……。
山崎 やっぱり、ニーズがかなり少なくなったというのは感じましたよね。私、ユーミンよりデビューが遅いけど、なぜかフォークの中に入っているんです。「最後のフォーク歌手」みたいな感じになっているんですよね。確かに、高田渡さんとか、泉谷さんとか、西岡恭三さんとかの前座みたいに共演しているんですよ、昔のフォークの人たちと。なぜか、女の子がポチッといたんですよね。女がいないなという場面になると、新人なのに「ハコがいいんじゃないか」とか言われて。『赤い風船』の前座がデビューの初めてのツアーだったんですけど。それで、前座しながら、こっちで遠藤賢司さんとジョイントとかしているんですよ。可愛くない前座ですよ。前座なのにめっちゃくちゃ忙しいんだから。もうラジオ番組を持っているし、鳴り物入りでニューミュージックのアイドルみたいな感じだった。フォークなのに、高校生で若かったからそのまま映るとアイドルみたいになる。

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