90年、父の墓参りで訪れたシベリアで撮影。 画像を見る

95歳でも元気だった母が、突然変わってしまった――。

 

女優・松島トモ子さん(75)の母・志奈枝さん(99)は、ある日突然、認知症を発症。4歳でデビューしてからマネージャーとして24時間ともに過ごしてきた母子に、想定外の展開が降りかかった。一度は倒れて親子心中も考えたが、松島さんは、自宅で母の面倒を見る道を選んだ。壮絶な母子の老老介護の現場の中で、支えになったのは仕事だった――。

 

「母の親しいお友達を招いて、都内の中華料理店で95歳の誕生会を開いていました。でも、母の様子が明らかにおかしい。私は、母に合図を送るつもりでテーブルの下から母のヒザに手をやりました。そしたら、母が失禁していた。もうあのときは、頭が真っ白になってしまって。この場から、消えて無くなりたいとさえ思いました」

 

母に病名がついたのは、発症から約半年後。レビー小体型認知症という、幻視に苦しめられ、凶暴性を伴う病気だった。それでも、自宅介護を選んだ松島さん。そこには、4歳で仕事を始めて以来築かれた母娘の絆があった――。

 

「祖母は大反対でした。いまと違って、役者は堅気の人間がすることじゃない、という時代です」

 

きっかけは、当時の時代劇スター・阪東妻三郎のスカウト。母・志奈枝さんは引き受けた。

 

「今でもそうだけど、子供と一緒に行ける職場って少ないわよね。親子が離れずにできる仕事が子役だったから、母は引き受けたんです。常に人目があって、母と2人きりで話すらできませんでした。だから母は、私が中学生になったとき運転免許を取ってくれたんです。まだ女性ドライバーが珍しい時代でした。そうすれば、移動中のクルマは母と2人きりで話せますからね。車中は、母を独り占めできる応接室だったわね」

 

高校を卒業する頃、松島さんは留学を決意。仕事と学校と家庭を行き来するだけの毎日に疑問を感じたからだという。渡米から2年半後、帰国した松島さんに、再び映画や舞台など、たくさんオファーが舞い込んだ。しかし、相変わらず“かわいいトモ子ちゃん”を要求される日々に、やりたい仕事とのギャップを感じてうつ病のようになってしまった。

 

そんな中、活路を見出したのが、語学力を生かした海外レポーターの仕事だった。

 

「ベトナム反戦運動家のキム・フックさん、元ソ連大統領のゴルバチョフさんなどインタビューさせていただいて。父も祖父も海外を飛び回っていた人ですから、母も私の活躍を喜んだみたいですよ」

 

しかし、再び松島さんを大きなアクシデントが襲う。

 

「(仕事で)ケニアに行ったんです。そうしたら、ライオンに襲い掛かられて。3日で退院したら、今度はヒョウに突然背後から襲われて。首の骨が“ガリッ”っというのが聞こえた時は、あぁもうだめだ、と……。ライオンに襲われた時は、日本で報道される前に母に伝えないと心配すると思ってね。母は取り乱したりせずに冷静に受け止めてくれましたね」

 

あと一ミリずれていたら、半身不随になっていたかもしれない。そう医師から伝えられたこともあった。しかし今、松島さんは、仕事を辞めなくてよかったと語る。

 

「介護は先が長いから、仕事を辞めたら逃げ場がなくなるわよ、とケアマネージャーさんに止められたんです。仕事で留守にする時は、ショートステイに母を預けて仕事を続けました。辞めなくて本当に良かった……」

 

180度変わってしまった母に戸惑いながら、徘徊や排泄の世話をしていた松島さん。最近は、看取りについてもより深く考えるようになったという。

 

「私、4歳からずっと、“役者は親の死に目に会えない”と聞かされてきたでしょ。いま、もし母の死に目に会えなかったらと考えると(仕事を)引き受けるのを迷いますね。完璧な母のまま亡くなっていたら、きっと私、立ち直ることができなかった。でも、これだけさんざんやられますとね。少しは親孝行できてるんじゃないかって」

 

戦時中に亡くなった父の元に母を返す日まで、松島さんは、母と共にいることを決めていた。

 

「女性自身」2020年3月3日号 掲載

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