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「僕は、アカデミー賞を取ったポン・ジュノ監督のことをデビュー作から評価していたんだ。会う人ごとに熱く語っていたのに、誰も相手にしてくれなかった。けっこう先見の明があると思うんだよ」

 

そう語り始めたのは、時代を代表するトップスターのヒット曲を次々と手がけ、旋風を巻き起こした希代の作詞家・松本隆(70)。今年、作詞家生活50周年を迎える。松本がインタビューに応じてくれた。

 

松田聖子(57)も近藤真彦(55)も薬師丸ひろ子(55)も、彼らがデビューするや否や、その姿を見つけ、「詞を書きたい」と願った。そして「縁はないかな」と思っていても、その後、不思議とオファーが舞い込むのだという。

 

「聖子ちゃんはCMでデビュー曲を聴いて、声だけで『いいなぁ』と感じた。薬師丸ひろ子さんは映画『野生の証明』で、父親役の高倉健さんに『お父さ〜ん』って駆け寄るシーンを見てね。マッチはドラマ『3年B組金八先生』だったな」

 

作詞家デビューから半世紀、ピーク時は3日に1曲を手がけ、「女性と付き合う暇もなかったから、恋愛の詞も想像で書いていた。僕も若かったから、毎日何十回とひらめいて言葉がどんどん降りてきた」という松本。手がけた楽曲は約2,200曲。日本語の美しさ、豊かさに改めて気づかせてくれる松本ワールドの原点を聞いていくと、やがて現在もご健在である母親の存在が浮かび上がってくる。

 

「息子の目から見てもすごい母だった。まるでウルトラの母みたいな豪傑(笑)」

 

そういって笑う松本。少女時代、“伊香保小町”といわれるほど美しかった母は、大蔵省(当時)に勤務していた父親に見初められて結婚。長男の松本、そして妹を出産する。「ふだんは優しい人なんだけど」と前置きしつつ、松本は続ける。

 

「妹は生まれつき心臓が弱く、若くして他界してしまった。普通なら母親が『強く産んであげられなかった』と自責の念に駆られてしまうものだろうけれど、母はまるでクヨクヨしたところがないの。料理も独創的で、僕がグルメになったのが不思議なくらい」

 

母親が泣いているところはいまだに見たことがないという。

 

「80代まで群馬県のシニアの卓球選手で。ある夜更けに親父から電話があって、母親が高熱を出して入院しているのに『卓球選手権に出るから九州へ行く』と言い張っている、と。『隆が止めろ』と親父は言うんだけど、僕が止めても無駄なのはわかりきっているんです。結局、翌朝、母は試合に出かけていったそうで、自分がこうだと決めたら貫く人です」

 

強くたくましい母の姿を見て育ったからか、松本は今も無意識に、知り合いになる女性には強い人を選んでしまうとか。そう聞くと、歌詞に描かれる、凛として強い女性像にも合点がいく。

 

「女性自身」2020年3月17日号 掲載

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