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6年半に及ぶ介護生活を経て、母を看取った。精いっぱいの介護には後悔がないという。そして、母もきっと……。親を持つすべての人に読んでほしい母娘秘話ーー。

 

「母の遺品整理を少しずつ始めているんですが、お出かけ用のいちばんいいバッグから、昭和61年のコンサートの大入り袋が出てきました。タンスからはきれいに袋に入ったままの(おニャン子クラブの会員番号の)4番と書かれたTシャツが出てきて……。私のことを大事に思っていてくれた母のあたたかさに、触れるたびに、涙がこぼれそうになります」

 

こう語るのは、3月23日に母・ひで子さん(享年92)を亡くしたタレントの新田恵利さん(53)だ。

 

「母の部屋には、もう大きな介護ベッドもなく、がらんとしていて、毎朝、お線香をあげるたびに喪失感に見舞われてしまいます。結婚後はすぐに二世帯住宅で母と同居しましたから、一人暮らしの期間が短くて……母と密接に暮らしてきたからかもしれませんね」

 

ひで子さんの四十九日法要を機に、愛する母との別れを本誌で初めて語ってくれた。

 

ひで子さんの死を覚悟したのは、昨年夏に、食欲が減退し、脱水症状に陥ったときだという。

 

「何本も点滴を入れて、担当医から『もう入れられる血管がありません』という説明のなかで、『終末期』という言葉が出たんですね」

 

死については親子ですでに話し合っていた。’00年にひで子さんは尊厳死協会に入り、延命治療をおこなわない方針も決めていた。

 

「これ以上の病院での治療は望まず、母の希望どおり、在宅で看取ることにしたんです」

 

母の願いは極力かなえてあげることにした。食べたいものを聞くと、指を2つ立てて「ホタテ2貫」と言った。兄が好物のホタテのすしを買いに走った。今年の正月には雑煮に入ったおもちを1個食べることができたが、2月からは固形物をほとんど受け付けなくなった。

 

母が3月に逝去…新田恵利さん「母は最後に『ありがとぉ』と」
画像を見る 00年にひで子さんは尊厳死協会に入り、延命治療をおこなわない方針も決めていた

 

少しずつ、命の炎が小さくなっていくひで子さん。会話も、「お水」「ジュース」など、単語だけのやりとりとなっていった。

 

「でも、母は、最後までやっぱり母なんですね。兄や私を『もういいから休みなさい』って、気遣ってくれるんです」

 

穏やかな親子の時間が流れ、3月23日が訪れた。

 

「朝、様子を見にいくと口呼吸で、ぜえぜえいって苦しそうにしているんです。声をかけても目を開けるのがやっとで……。その日、ラジオの生放送があったんですが、お休みをいただきました」

 

午前中、ベッドの両サイドで、新田さんと兄が、ひで子さんを挟むように見守った。遠のく意識の中でひで子さんは、何かを伝えようと口を開けた。

 

「“あ”や“お”と言おうとしているみたいでした」

 

ひで子さんの言葉を思い出した。

 

「お兄ちゃんと恵利ちゃんには世話になったから、ちゃんと“ありがとぉ”って言って死ぬからね」

 

目に浮かんだ大粒の涙が、すっと新田さんのほおを伝った。

 

「……だから、私は母を見て、きっと『ありがとぉ』って言ってくれたんだって思っています」

 

昼過ぎ、ひで子さんは家族に見守られながら息を引き取った。

 

生前、『死に装束じゃなくて、ウエディングドレスを着たい』と希望していた母のために、オフホワイトの生地を用意し、死の2週間ほど前からドレスを作り始めていた。

 

「母の死を認めるようで仕上げまでしていなかったドレスを、亡くなったあとに完成させて、母に着せて送ることができました」

 

きっと大好きなママは今もこう伝えたいはずだ。“恵利ちゃん、ありがとぉ”とーー。

 

「女性自身」2021年5月25日号 掲載

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