■小学4年生のとき、震災復興支援のため、作詞作曲した楽曲の売り上げを全額寄付した
母娘は歌える場所を探し、積極的に出向いた。やがて、聴く者の胸を打つ歌は評判をよび、あちこちのイベントや、チャリティ番組などから声がかかるようになる。 さらに、ひらりさんは日本バリアフリー協会が主催する、障害者の国際音楽コンクール「ゴールドコンサート」に出場。10年、小3の秋だった。
「ひばりさんの曲同様に大好きな『アメイジング・グレイス』を歌って、ひらりは史上最年少で観客賞と、歌唱・演奏賞をいただいたんです。お客さんが選んでくれた賞ということで、『それなりに、この子は誰かに届く歌を歌えてるんだな』って確信が持てました」
翌11年3月。東日本大震災が発生。その被害の大きさに、多くの人同様、ひらりさんも胸を痛めた。
「地震のこと、テレビのニュースで聞きながら、これは私の想像もつかないような大変なことが起きたんだ、そう思いました」
母は娘に、被災地を応援するための曲作りを提案。その瞬間、ひらりさんの脳裏に「過去・現在・未来」という言葉が浮かんだという。
「それで、4年生になってすぐ『みらい』という初めてのオリジナル曲を作りました。私には見えないけれど、被災した人たちはいま、暗いことばかりに目がいってしまうんだろうな。でも、心の目を開いて、明るい未来を目指して歩いていこうよ。そういう思いを込めて作った曲です」
まず、被災地・福島から三条市内の施設に避難してきて暮らす人たちの前で、ひらりさんは『みらい』を歌った。その年のゴールドコンサートや、慰問に訪れた東北の仮設住宅でも。やがて、曲を聴いた人たちから「CDにして」という声が上がる。絵美さんが言う。
「それで、自費制作したんです。1枚1千円のシングルを1千枚。それを、イベント会場などで販売したら予想以上に売れて。14年にCDの売り上げ100万円を、あしなが育英会を通じ震災遺児の人たち宛てに寄付することができました」
時間を見つけては被災地にも通い続けた。うれしかったのは、人々が少しずつ元気を取り戻す姿。「私も本当にうれしかった」とひらりさん。絵美さんもこう言って笑った。
「最初はひらりの歌を聴いて泣いてた人たちが、数年たつと『ひらりちゃん、頑張りなさいよ。私ら、応援してっから』って。気づいたら、私たちが応援されてました」
母娘の活躍は国内だけにとどまらない。13年夏には、アメリカでもっとも有名なクラブの1つで小6のひらりさんが、満員の観客から万雷の拍手を浴びていた。経緯を絵美さんが説明してくれた。
「5年生のときのゴールドコンサートでグランプリを獲得して、副賞にペア航空券をいただいて。どうせなら歌える場所に行こうよってことに。でも、肝心の航空券は繁忙期は使えなくて、結局自腹で行ったんですけどね(苦笑)」
飛び込んだのが、ニューヨークのハーレムにある「アポロシアター」。かつてジェームス・ブラウンやジャクソン5ら、そうそうたるスターを輩出した人気イベント「アマチュアナイト」に挑戦したのだ。ひらりさんは耳の肥えた聴衆を魅了し、スタンディングオベーションまで受けたという。
「私がホイットニー・ヒューストンさんの『I Will Always Love You』を歌い始めた途端、客席から『キャー!』ってすごい大きな歓声が聞こえてきて。びっくりしすぎて私、鍵盤から手を離しそうになっちゃって。誰かほかのロックのコンサートに紛れ込んでしまったような不思議な気分でした。だって、それまでの日本での私のコンサートは、やはり障害って看板もあるからか『静かに聴きましょう』っていうお客さんが多かったから。その声援を尻すぼみにしたくなくて、いつもはなかなか出せない高い音も頑張って出しました」
歓声の大きさで審査されるアマチュアナイトで、ひらりさんは十数組の出演者のなか、見事、ウイークリーチャンピオンに輝いた——。
そんな2人が、ここ5年間で最大の夢だと語っていたのが冒頭の「パラリンピック開会式での国歌独唱」。逆境を逆境と思わず、夢を叶え続けてきたひらりさんの歌声だからこそ、勇気をもらった人は多いだろう。
2人はまだ、夢の途中。これからも、歌声は世界中に響いていく。