■スタッフに羽交い絞めにされ、スタジオからつまみ出された
伸び悩みを感じていたとき『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(’74~’85年・ニッポン放送)の土曜アシスタントに抜擢された。ところが――。
「レギュラーになって約半年後、(片岡)鶴太郎さんが司会の『オールナイトフジ』(’83~’91年・フジテレビ系)とコラボして、テレビとラジオの2元生放送をする回があったんです。
そのとき、鶴光さんと鶴太郎さんの悪ノリに乗せられて、つい放送禁止の4文字を口にしてしまって」
その瞬間、スタジオの雰囲気が一変した。
「スタッフに羽交い締めにされて、スタジオからつまみ出されました。マネージャーには『すぐに寮に帰れ!』とタクシーに押し込まれて、“これは大変なことをしてしまった”と……。翌日、スポーツ新聞でなく、朝日新聞の社会面に『新人アイドルが、生放送で放送禁止用語発言』と報じられました」
スケジュールが真っ白になり、学校と寮を往復するだけの日々に。
「堀越高校の芸能コースは、仕事が忙しくて休んだり、単位が取れないことが“売れている”証しであり、ステータスだったのに、私は学級委員までやっていました。同じクラスには’82年組の堀ちえみちゃんや早見優ちゃんがいて、定期テスト前になると、テスト範囲をまとめた紙を作って、各事務所にファクスするのが私の役目。ちえみちゃんはよく上履きを盗まれていたので、下校時に下駄箱をチェックして、盗られていたら、購買部で買って補充していました」
仕事がなく、毎日のように寮のある国立駅前のベンチで泣いていた。そんなとき、同じ事務所の中山秀征が声をかけてくれた。
「渡辺プロは歌手班、ドラマ班、バラエティ班と分かれていたんですが、秀ちゃんが『姉さん、歌手班は居心地悪いでしょ。僕のいるバラエティ班に来ない?』と誘ってくれたんです。それが大きな転機になりました」
すぐにテレビに復帰できたわけではない。当時、中山が組んでいたお笑いコンビ、ABブラザーズの営業先に同行して、前座で歌うことから始めた。