■「親父と違う」たけしの言葉に勇気を
個人事務所を閉鎖し、普通の仕事に戻ろうとしたとき、知人のツテで『きっと俳優をできるから、やってみないか』と誘いを受けた。
「25歳のときでした。人前に出るのは恥ずかしい人間ですが、当時、オヤジはボクのすべてだったので“どうせこれ以上、失うものはない”と吹っ切れた思いもあって、挑戦できたんですね。そんな勘違いもあって、役者の世界に飛び込んでしまったんです」
映画が好きで、知識としては詳しかったが、いざ演じるとなれば勝手が違った。
「全然、ダメでしたが、“悔しい”という思いをバネにすることができたんです。いまだにうまくならないので、その思いで続いているんです(笑)」
映画『ピエタ』(‘97年)で本格デビューしたのは、26歳。少しずつ仕事を増やし、’00年には連続テレビ小説『オードリー』(NHK)にも出演の機会が得られた。その当時、所属していた事務所があったマンションに、北野武作品に携わる関係者が住んでいたこともあり、プロフィールを託したこともあった。
「たけしさんが映画を撮るとなれば、大量にプロフィールが送られてくるので、なかなか選ばれることはありません。でも、ようやく『BROTHER』(‘01年)で『若い衆7』という役をもらって。セリフはないのですが、いいポジションだったんです。
撮影の際、機材トラブルがあって、スタッフが『いまのシーン、もう一回お願いします』と監督に伝えたとき、たけしさんが『撮れてないの? せっかく若い衆がいい演技をしたのに』とぼやいてくれたんです。それがすごくうれしくて」
映画『血と骨』(‘04年)では、たけしと役者として共演。
「ごあいさつすると『オイラが映画を撮るときは、必ずやってもらうんで、そのときはよろしく頼みます』と言ってくれて、本当に『アウトレイジ 最終章』(‘17年)などで、ボクを起用してくださったんです」
なにより嬉しかったのは、仁科を“川谷拓三の息子”として扱わなかったこと。
「ボクから父の面影を見つけてくださる人も多く、すごくありがたいのです。でもたけしさんは『仁科くんは、お父さんとは全然違うやり方をやろうとしている。そこが好きなんだ』と、父と切り離して見てくださったので、大きな自信にもつながりました」
2年ほどオフィス北野に所属し、さらに役者としての経験を積み、現在はフリーランスで活動している。
「まったく知らない人からオファーが来るのは、年に1回か2回くらい。あとの仕事は、ほとんど前にやった仕事の関係者など、自分の人脈でお仕事させてもらっています」
‘22年は『あしやのきゅうしょく』(監督/白羽弥仁)、『西成ゴローの四億円』(監督/上西雄大)、『ミドリムシの姫』(監督/真田幹也)などにも出演予定だ。
「オヤジが死んだときの年齢を超えるので、会社の上司など、オヤジができなかったような役柄が来るのが楽しみです。ワンシーンでも、みなさんの記憶に残る演技に挑戦していきたいです」
あのクシャッとした笑顔で、天国から拓ボンが見守っているはずだ。