矢部美穂イジメ体験告白「ラジオだけが私を人間扱いしてくれた」
画像を見る 同級生からのイジメに悩んでいた中学生のころの矢部さん

 

■私には芸能界以外に選ぶ道がない状態だった

 

ミポリンの曲に触れるために、ラジオ番組にも夢中になった。

 

「あるとき、リクエストはがきを送ると『お便りをくれた矢部美穂さん』と読んでくれたんですね。学校では“ちゃん”や“さん”もつけられることがなかったので“私を人間として認めてくれた”って、すごく喜びを感じたんです。ラジオって、自分に語りかけてくれるようなところがあり、すごく温かな気持ちになるんですよね」

 

そんな状況下で描いた夢が、芸能人になることだった。

 

「このまま北海道にいたら、イジメられたまま。とにかく東京に逃げたかった。学歴がない私が、親に経済的な迷惑をかけずに東京で生きていくためには、芸能人になるしかないって、思ったんです」

 

選考会のための交通費や宿泊代を負担してもらえる「ホリプロタレントスカウトキャラバン」やオスカープロモーションの「全日本国民的美少女コンテスト」など、大きなオーディションに絞って応募した。

 

「奇跡的に、裕木奈江さんそっくりに撮れた写真があって、それを送ると、書類審査はだいたい通りました。面接では、母のアドバイスで『芸能界で食べていきたいです』と答えるようにしていました。ハングリーさを伝えたくて。学校にほとんど行っていないから成績が悪く、どこの高校も受からないほど。勉強ができれば別の選択肢もあったと思いますが、私には芸能界以外に選ぶ道がない状態だったんです」

 

その気迫もあり、堺正章が司会を務めたオーディション番組『ゴールド・ラッシュ!』(’91~’93年・フジテレビ系)に出演。

 

「最初は30人ほど参加できるのですが、歌や水着の審査で徐々に落とされ、最終審査に残るのは5~6人ほど。そこには選ばれませんでしたが“近づいてきている”という手応えはありました」

 

そして’92年、雑誌『Momoco』(学研)の美少女発掘コンテスト「New MOMOCO CLUB」のグランプリを受賞したのだった。

 

「グランプリが決まったときはうれしくて“生きていくことができる”ってホッとしました」

 

以来、浮き沈みの激しい芸能界に身を置き続けられているのは、ハングリー精神を持ち続けているから。

 

「運のよさもあると思います。’92年にデビューしてバラエティ番組やグラビアの仕事が続いたのですが、数年たって仕事が少なくなった時期もありました。でも、そんなときにこそチャンスが訪れる。たとえば’90年代後半に発売された『たまごっち』にハマっていることを、よくまわりに話していたのですが、空前のブームになったことで私にもテレビや雑誌の取材が殺到し、死んだたまごっちを生き返らせる裏技などを紹介したりしました」

 

デビュー数年後には、念願の中山美穂との対面を果たした。

 

「私のマネージャーさんがミポリンの所属事務所へ転職したこともあって、あるときコンサートに行くと『せっかくだから、楽屋へ挨拶に行こう』と声をかけてくれたんです。すっぴんのミポリンに会うという貴重な体験をしましたが、あまりに舞い上がって、何をしゃべったのかまったく覚えていません。でも、大きな夢が叶いました」

 

“ミポリンになりたい”という強い思いが、厳しい芸能界を目指すモチベーションとなったのだ。

 

【PROFILE】

矢部美穂

’77年、北海道生まれ。’92年、雑誌『Momoco』のコンテストでグランプリを受賞したことをきっかけに芸能界デビュー。バラエティ番組、グラビアを中心に活躍する。’98年にはイジメについて語った著書『学校拒否』(光進社)を出版。’22年に騎手・山林堂信彦との結婚を公表

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