■戦火を逃れ避難したのは憧れの国・日本
「この先、どうしたらいいのか」
途方に暮れたユリヤさんの心に浮かんだ行き先が、日本だった。
「’15年にラジオで、東日本大震災で被災した人たちのことを知りました。家や愛する人を失っても、ゼロから人生を立て直した人たちがいたことに感銘を受けました」(ユリヤさん)
いつか行ってみたい、暮らしてみたい……、はるか遠い日本に思いを馳せながら、独学で日本語を学び、俳句を勉強してきた。そして、今年6月。思いがけない形で、夢だった日本にたどり着いた。
いっぽう、大阪でコンサルタント業を営む吉村さんは、ウクライナの人たちの支援活動に関わっていた。日本で仕事を探すユリヤさんとSNSで知り合うと、画家が本業の彼女にデザイン会社を引き合わせた。吉村さんは彼女のことを「平和の使者、戦争の語り部」と捉えていた。
「でも、ただ悲しみを伝えるだけでは、関心が薄れてしまう危機感がありました。現に仕事探しを手伝っていても、手を挙げてくれる企業は戦争の長期化に伴って減少傾向でした。かわいそうという目線だけでは、ニュースの向こう側に、生身の人間がいることが伝わらない気がしていました」(吉村さん)
そこで、吉村さんは笑いの要素を取り入れようと考えた。
「悲しみ以外の感情を共有できれば、もっとウクライナの人を身近に感じてもらえるんじゃないかと思ったんです。それでユリヤに『ウクライナのことを伝える講演をしよう、そのなかに笑いを、漫才を取り入れよう』と提案しました」(吉村さん)
とっぴとも思える提案を、ユリヤさんは快諾した。
「最初は、私が日本語で、日本の人を笑わせることができるのか、わかりませんでした。でも、浅草で本物の漫才を見て、すごく面白かった。私もやってみようと思いました。もっと日本の人と仲よくなれる気がしました」(ユリヤさん)
相談を重ねるなかで、吉村さんは、M-1挑戦を思い立つ。
「1人でも多くの人に、ウクライナへの関心を持ってもらいたいからです。そのためにも、M-1の1回戦はなんとか突破したい」(吉村さん)