■大物俳優との“リアル失楽園”報道に父から電話が
高校3年生くらいからは、音楽の趣味がヒップホップに傾倒。東京・芝浦にあるディスコ「GOLD」(’89~’95年)で、雑誌『Fine』(日之出出版)の編集者に声をかけられた。
「『今度、hitomiちゃんと撮影があるんだけど、来ませんか』と言われて、『行きます』って即答。新島での撮影に参加したものの、人前で水着になることも、写真を撮られることも恥ずかしくて、笑顔もうまくできませんでした」
だが、この経験から芸能界に興味を抱き、’95年度のクラリオンガールに選出。深夜の帯番組『ワンダフル』(’97~’02年・TBS系)のMCに抜擢された。
「そのころ、『失楽園』の映画が製作されることが話題になりました。不倫がテーマの小説が新聞に連載されていることは知っていましたが、当時はまだ20歳。不倫の末に2人が心中してしまうラストシーンに“なぜ?”と疑問を抱いていました。そんな映画に出演できるチャンスがめぐってきて、事務所からは『森田芳光監督だから頑張れ』と送り出されました。私は主演の役所(広司)さんが左遷された、窓際族が集まる部署にいる、地味でさえない女のコ役でした」
新人だったためにマネージャーがつくこともなく、ましてや楽屋なども割り当てられないため、現場ではいつもひとりぼっちだった。
「映画の待ち時間は長く、いつもポツンとしている私を見かねて、あがた森魚さんがよく声をかけてくれました。すごく気さくに音楽の話をしてくれるんですが、ジェネレーションギャップもあってほとんど理解できませんでした(笑)」
手持ち無沙汰から、当時人気だった「たまごっち」を撮影現場に持ち込んだこともあった。
「私がうつむいて『たまごっち』をいじっていたら、小坂一也さんに『こら!』と怒られて。仕事現場でゲームをやっていたからだと思ったら『そんな暗いところでやっちゃ、ダメじゃないか。目が悪くなる』と、お父さんみたいな口調。それだけ子どもされていたんですね」
そんな新人にとって、役所も黒木瞳も、遠い存在だった。
「演技に入ると“本物の俳優はこれほど違うのか”と感じるほどのオーラに圧倒。当時の映画の撮影現場は、怖い裏方さんがいていい意味でピリピリ。だからこそ全員で一つの作品を作り上げている熱量を感じられ、女優をするにあたってすごく刺激を受けました」
作品の反響の大きさを改めて感じたのは、上映が終わったころ。
「父親から『お前、本当か! (新聞に)載ってるぞ』って電話があったんです。何かと思うと、夕刊紙に『役所広司が港区に住む原千晶の自宅に足しげく通っている』と報じられていてびっくり。役所さんとは現場でもほとんどお話ししなかったのに……。父はリアル失楽園だと慌てていました(笑)」
思わぬ“スキャンダル”に見舞われたものの、公私ともに思い出に残る作品となったのだ。
【PROFILE】
原千晶
’74年、北海道生まれ。父の転勤に伴い、福岡、埼玉などで育つ。’95年度の「クラリオンガール」に選出されたことをきっかけに芸能界デビューし、グラビア、バラエティ番組を中心に活躍した。30歳のときに子宮頸がんを宣告されて以来、がんの啓発活動や講演をさかんに行っている