【初告白】嘉門タツオ、天国の妻へ「二度と酒は飲まない」飲酒運転事故の供述で“浅はかな考えで嘘を”
画像を見る 東京と大阪で行った披露宴では、明石家さんま、久本雅美らにも祝福された

 

■「楽しく温かい人なら安心できる」がんサバイバーのこづえさんは結婚を決めた

 

落語家・笑光から転身した歌手・嘉門達夫は、飛ぶ鳥を落とす勢いでヒットを生み出していく。

 

『ヤンキーの兄ちゃんのうた』(’83年)でYTV全日本有線放送大賞新人賞、『替え唄メドレー』(’91年)は84万枚の大ヒット。そして’92年大みそかに『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、’93年には日本武道館にも進出した。その後も『ガッツ石松伝説』(’02年)や『明るい未来』(’03年)など、話題作を続けて発表。私生活では’90年代に一度、婚約までして解消した経験があったが、その後「特に結婚願望はないまま」40代後半を迎えていた。

 

そこに運命的な出会いが訪れる。

 

’07年のことだった。

 

「友人が宴席に連れてきたのが、彼女でした。僕の6歳下で『白内障手術にすぐれた眼科医』と紹介されたんですが……『嘉門達夫』のことは知らなかったんです」

 

その女性が東京慈恵会医科大学病院眼科医だった大原こづえさん(当時42)。目鼻立ちがクッキリしたロングヘアの彼女は知性あふれる才女だが、苦労人でもあった。

 

「お父さんを早くに亡くし、3人の弟の面倒を見ながら、勉強して眼科医になった。とにかく個性も押しも強い女性で『なかなか釣り合う人がいなくて独身できた』という友人の説明にも納得でした」

 

ここで笑福亭笑瓶さん(享年66)、北野誠(64)ら友人にプッシュされ、2人で食事に行くように。すると「40代まで独身」が共通項となり、ほどなく恋人同士となった。

 

結婚は、’08年11月、嘉門49歳、こづえさん43歳だった。翌年2月に東京と大阪で行った披露宴では、明石家さんま(67)、久本雅美(64)はじめ多くの芸能関係者に盛大に祝福された。

 

「彼女が『この人とだったら……』と思ってくれたことで、結婚願望のなかった僕でも『こんなふうに思ってくれる女性なら、大丈夫だろう』という意識になりました」

 

じつは結婚前、こづえさんから「がんサバイバー」であることを打ち明けられていた。結婚6年前の’02年に脳腫瘍が発見され、摘出手術を受けていたのだ。

 

「でも、それも『(手術で取り切れなかった腫瘍は壊死状態、もしくは不活化していて)大丈夫だから』ということでしたので、僕も安心していたんです」

 

ともに40代の門出をしっかり結びつけたのは「病いの存在だったかもしれない」と打ち明ける。彼女は、’07年年末、嘉門の著書『た・か・く・ら』(扶桑社刊)を読んで感銘を受けていたのだ。

 

「僕の幼馴染みで、肺がんで亡くなった高倉義和との日々を綴った本です。にぎやかな最期を彼に過ごしてほしかった僕は、友人全員で見送るつもりで、病室に次から次へと見舞いに来てもらいました。彼女はそのくだりを読んで僕を信頼してくれたみたいで。『こんなふうに楽しく、温かく見送ってくれる人だったら、過去に病気をしている私も安心できる』と」

 

新生活は濃密な時間になった。

 

「新しいお店の発掘に、食べ歩き、飲み歩きをしました。目黒駅近くの焼き鳥『鳥しき』には200回以上も行きました。四谷三丁目の四川料理『蜀郷香』にも80回ほど。ワインに詳しい彼女に、僕が教えてもらいながら……そんなことが楽しかったんです」

 

嘉門は「こづえさん」、彼女は「たっとぅん」と呼び合ってきた夫婦。都内近郊に限らず嘉門のツアーに同行して地方の名店にも出掛けた。

 

そんな“食通”夫婦の合作が、’16年発表のアルバム『食のワンダーランド 〜食べることは生きること〜 其の壱』だった。

 

「収録曲『炎の麻婆豆腐』は彼女に相談してできた一曲です。2人共通の楽しみの『食』を通じて、『食べることの大切さ』を伝える作品を共同制作できました」

 

こづえさんは、’02年の手術後も何年かは、仕事として診察や治療をしていたものの、手術の後遺症なのか、体の動きに不自由な部分が出始め、徐々に現場仕事ができなくなってきてはいた。だが3カ月に一度のMRI検査の経過は順調で、特に再発や病気の進行は見られなかった。だからそのつど、安堵していたものだ。

 

ところが昨年3月、こづえさんは急に視野狭さくが出て、会話の途中で単語が出てこなくなったり、強度の頭痛を訴えたりした。そして5月末の検査で脳腫瘍の再発と診断されたのだった──。

 

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