■こづえさんのお見舞いに160人も駆け付けた。亡くなった後は、「あっぱれ」と拍手して……
「こづえさんは、かつては白内障の手術などで技術を高く評価されていたんですが、脳腫瘍後は右手が万全ではなく、結婚したときはすでに執刀のメスはおいて、診療医をしていました。そんなときに僕と出会ったことで『嘉門タツオの表現を一緒に作り上げる』ことに、希望をシフトしたんだと思います」
“白内障手術のスペシャリスト”がメスを奪われる……その絶望は想像に難くない。しかしそんな折に嘉門が現れ、彼の才能の裏に、人へのやさしさ、思いやりを感じ取ったこづえさんは「この人となら」と新鮮な気持ちで結婚生活を楽しんだ。
徐々に不自由の度合いは増したが、結婚から14年、彼女は幸せな時間を過ごしてきたはずだ。
「女性としての希望も、再発するまで彼女は持っていました。2人で不妊治療もして、こづえさんは卵子凍結までしていたんです」
母になる夢も抱いていたこづえさんを襲った脳腫瘍の再発。5月の検査では、腫瘍が9cmにも肥大して発見されたのだ。
「なぜそんなに大きくなるまで、と思うでしょうが、彼女はずっと、定期検査で経過観察していましたし、昨年3月の検査でも『縮小している』と言われていました。ただ、再活性化したことで急激に進行したのではないかということでした。6月8日の摘出手術は、8時間もかかったんです」
退院したのは6月末。ふつうに食事もお酒も口にできたが、ものの2週間で、こづえさんは「脚が痛い」と言いだした。
「調べると、もう脊髄に転移してしまっている可能性が高いことがわかったんです……」
自宅で嘉門は付きっきりで看病した。移動の車いすの乗り降りを手伝い、トイレの介助も。だが嘉門も疲労が蓄積して不眠症状が出たため、飲酒で紛らわせていたら、膵炎になってしまった。
結局、彼女は入院することに。
「もう体中が痛かったかもしれません。僕は最後の抗がん剤治療にかけたかったんですが、本人は『おうちへ帰りたい』と希望しました。それで自宅での緩和医療にしたんです。8月下旬のことでした」
抗がん剤治療はがんを撲滅する期待が持てる半面、体のダメージも大きい。だが緩和ケアは、もう本人の生命力に頼るほかない。
つまり、最後の日までの看取りの期間となることを、覚悟しなければならないのだ。
「もちろん再発と言われた時点で、『いつかその日が来る』と覚悟はしていたつもりなんですが……」
在宅の日々を「最もにぎやかに過ごしてほしい」という思いから、嘉門はできるだけ多くの友人に、お見舞いに来てもらうようにした。こづえさんが「会いたい」人に声を掛けていくと、連日、多くの友人が家を訪ねてきた。
「160人も来てくれました。みなさんとワインを飲みながら過ごす。こづえさんも楽しそうでした」
しかし固形物は食べられなくなり、みるみる痩せてきてしまったこづえさんは、もはや話すこともできなくなっていた。
9月14日には、発熱が39度から下がらなくなり、血圧が高く動悸も激しくなっていた。翌15日夕刻、付きっきりでいた嘉門が訪問看護師と話すため部屋を外した、わずか2分のあいだに、こづえさんは息を引き取った。
「いちばん僕が見たくなかった息を引き取る瞬間を、彼女は見せないように逝ったんだと思う。僕は『あっぱれ!』と拍手して……」
話し終わらないうちに、嘉門の目から涙がこぼれる。なにかを言おうとするものの、言葉が出ない。ようやく取り直して明かしたのは、亡くなる2カ月前の昨年7月、2人でドライブ中の、こづえさんのこんな唐突な言葉だった。
「なにがあっても、私は応援してるからね」
その言葉に嘉門は「おう」と答えたまま、黙ってしまったという。
「……彼女は特別に、という感じでなく、自然に言っていました。
ここ数年、それぞれの母を亡くしたこともあって『人間には寿命があるからね、抗えない寿命がある』と口癖のように言っていた。覚悟していたんでしょう」
愛妻の思いを胸に、嘉門は正月の渋谷公演まで走り抜いたのだ。