「今日も明日も満員御礼」老舗劇団を女性4世代で守り続ける80歳の現役女優・佐々木愛さん
画像を見る 「自分をさらけ出せる素直さが役者には大事」と佐々木愛さん

 

■芝居と全力で向き合う両親たちの姿に「私にはとうてい役者は務まらない」

 

「地から湧いた演劇」をモットーに文化座が結成されたのは、戦時下の1942年2月。演出家の佐佐木隆さんと女優の鈴木光枝さんを中心に仲間9人でのスタートだった。その1年後の1943年7月18日、この2人を両親に、愛さんは東京で生まれた。光枝さんは出産後3カ月で舞台復帰し、1歳の愛さんを伯母夫婦に預けて満州巡業に出てしまう。

 

「両親は終戦から1年後に帰国したものの、劇団再興のため、私を伯母の家に置いたまま別宅で暮らしました。でも伯母の家は建築業で羽振りもよく、実子と養女もいたので、私は3姉妹のつもりで楽しく暮らしていました」

 

とはいえ、幼いだけに両親の不在を寂しく思う場面もあった。

 

「ある日、私が両親の家に行って熱を出したときも、『芝居の稽古があるから』と置いていかれたことがありました」

 

その話を聞かされた伯母は、愛さんに言った。

 

「あなたの両親は、お金にはならないけど、人の幸せにつながる大切なお仕事をしているのよ」

 

ようやく小学校入学とともに北区田端で両親との同居が始まるが、

 

「母は『子供のせいで仕事を断るのはイヤ』と言い、けっして裕福ではなかったのですが、お手伝いさんを雇いました。その費用を稼ぐために女優業をしながら軒先に『靴下のお直し致します』の看板を掲げ、ナイロンストッキングの伝線を直す内職を始めたんです」

 

一方の父親は芝居には厳しかったが、ふだんは人間味豊かな硬骨漢。

 

「秋田の下級武士の家の長男で、徹底して差別を嫌い、口癖は『歴史を勉強しなさい』『読みかけの本を持ちなさい』でした」

 

同じ田端の、現在も文化座の稽古場がある場所に引っ越したのが小学4年のとき。地元の小中学校を経て、和光学園高等部へ進む。

 

「この家は、本当にドア1枚で私たち家族の住居と稽古場がつながっていました。部屋で勉強していると、稽古の音や劇団員がお酒を飲んで熱い演劇論を闘わせる声が聞こえるんです。その真剣さを目の当たりにして、私なんかにはとても役者は務まらないと思い、映画出演の話も来ましたが断り続けました」

 

中学ではテニス部、高校では美術部に所属。高2の進路相談では医師を目指すと話すつもりだったが、逆に担任にこう説得される。

 

「せっかくそういう環境に育っているんだから、ご両親と同じ道を考えてもいいのでは」

 

直後から、昼は高校生、夜は文化座研究生という生活が始まった。

 

初舞台は、高2の夏。広島の貧農に生まれた女性の生涯を描いた『荷車の歌』の孫娘役で、旅公演も経験した。主役は母で、演出は父だった。ところが愛さんが高校卒業後に正式に入座してまもなく、その隆さんが直腸がんの宣告を受ける。

 

「父のがんが知れわたって以降、公演に呼んでくれる主催者も激減し、劇団の経済状況も悪化して、私はテレビなどの仕事も積極的に引き受けるようになりました」

 

やがて連続ドラマ『絶唱』に主演してアイドル的な人気者となり、多忙な芸能活動の合間を縫っては父親を見舞っていた。

 

「自宅療養中など、隣が稽古場ですから、寝たきりのはずの父が突然ガウン姿で現れ、劇団員に『君、そういう芝居はいけません』とダメ出しする場面もありました」

 

生涯を演劇に捧げた隆さんが亡くなったのは、愛さんが24歳のとき。カリスマを失い劇団の存続が危ぶまれたが、母親の光枝さんが代表を継ぐこととなった。

 

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