■大磯ロングビーチの部屋で「私たち本当に売れなかったね。悔しかったね」と握手
しかし「花の82年組」と対比され、83年は「アイドル不作の年」と言われるように。
「同じ世界にいても82年組の皆さんとは全く扱い方が違っていましたね。悔しかったこととしては、賞レースのときにプロフィールを持ってテレビ局に挨拶回りをするのですが、忘れもしないのがある局の音楽番組のプロデュサーが目の前でプロフィールをゴミ箱に捨てたんです。売れないと人間以下なんだなと涙が出ました。ただ、これには理由があって、これまでヤマハのニューミュージック系の方は“テレビの賞レースには出ません”としていたのに、ヤマハのアイドルは私が初めてだったので、“これまで断っていのに、なにをいまさら賞をくださいなんだ”という意味を込めていたらしいです。本当につらかったけど、それがあったので頑張ってこれたと思います。
水泳大会でも私たちが歌うときはワイプ(下の方の小さい画面)でしたし。水泳が得意だったのでクロールの自由形に手をあげて出て息継ぎもせず25メートル泳ぎ切ってバッと上に上がったら“カメラが待ってる”と思ったのに、周囲からは“オマエ、なに勝ってんねん”という感じでした(笑)。カメラは私ではなく後ろで泳いでいる堀ちえみさんを追ってたんですね。いつもそんな感じでした。
ただ、何回も水泳大会には出ていたんですが一回だけグットファイト賞で名前を呼ばれたことがありました。頑張っていたらちゃんと見ていてくれる人がいるんだと。その時の嬉しさは今でも忘れません」
同期の松本明子(58)とはいまや盟友だ。
「明子ちゃんとはデビューの年は一緒でお仕事することが多かったし、プライベートでも会っていました。でも84年になると新人という枠がはずれてしまって、みんなバラバラになったんです。その最後の日、大磯ロングビーチで水泳大会があって、みんな前の日からホテルに泊まるのですが、そのとき私の部屋に83年組が集結。今でも忘れないのは明子ちゃんが『私たち、本当に売れなかったね。悔しかったね。でも私たち生き残ろうね!』と握手したんです。
そのあとはずっと会ってなかったんですが、今から10年ほど前に大沢逸美ちゃんがある番組で『誰か会いたい人はいますか?』という企画で『同期に会いたい』と言ってくれて、そこで呼ばれたのが私と松本明子ちゃんと桑田靖子ちゃん。逸美ちゃんをサプライズで驚かす企画で喫茶店でドッキリみたいなことをやりました。それがきっかけで“今度、ご飯食べようね”と電話番号を交換。その後、誰かの誕生日だとかで定期的に集まるようになったんです。5年前には『お神セブン、不作のアイドル35周年記念』で銀座博品館でライブもやったんです。そのあたりから朝から晩までみんなでLineやってますね。家族以上に(笑)。きっと売れなかったから絆が深くなったんだろうなと思います。大磯ロングビーチでの固い握手がみんな心のどこかに残っていたんです」
『お神セブン』は基本的には自主イベント。物販のクリアファイルなどは自分たちで注文して袋詰めしている。いまや50歳代のファンの方々が地方から集まってくれるように。
「82年組は“手が届かないアイドル”で、83年組は“手が届くアイドル”みたいな感じですね(笑)。観客は、当時のファンというよりも、自分の青春時代を思い出す、または同年代を応援するという方々が多いですね」
昨年11月にデビュー40周年と還暦を記念して大阪と東京でライブをおこなった。
「結婚してお仕事をお休みして子育てを優先していた時期はありますが、引退を考えたことはありません。記念ライブにあわせて『100センチの幸せ』という新曲も発表しました。
これまではがむしゃらに成功を追い求めてきましたが、この年になって本当の意味での成功ってなんだろうと。人生って思い通りにならないことが多いから、これからは成功って意味ではなくて、私が生まれてきた意味を求めようと。自分はトークが好きだし、歌も好きだし。それで1人でも笑顔にできるならどんなところにでも行きたいと思っています。それが歌うことなのかしゃべることなのか。文章を書くことなのか、なんでもやっていきたいしライブを作る側もやりたいですね」