「“透明な存在な人”はこの世には誰もいない」『虎に翼』脚本家・吉田恵里香さんが語る朝鮮人差別、同性愛、原爆裁判を取り上げ続けた理由
画像を見る 左から祖母、幼少期の吉田さん、兄と母。母と毎日話すことでメンタルを支えられている。『虎に翼』も母が喜んでくれた

 

■中学3年生のスピーチコンテストで感じた“仕方ない”空気感が嫌だった

 

’87年11月に神奈川県で誕生。自営業の父、専業主婦を経て英会話学校を営む母、10歳上の兄の4人家族だった。1歳から母が本の読み聞かせをしてくれたことが、物語を作る糧になっているという。

 

「幼稚園のときには、自分で絵を描き、パンダとコアラの夫婦の物語のミニ絵本を作っていました。小学生から、物語をつくる仕事をしたいと思っていたんです」

 

「家族は幸せであってほしい」と願っていたが、それは“当然”ではないと気づく出来事が起こる。

 

「近所の家のお父さんが失踪し、そのお子さんが児童養護施設に入所。私の住む街にはふるさと里親という制度があり、月に何回かわが家でも預かることになったんです。漠然と“いつかはお父さんが戻ってくるだろう”と思っていたけれど、戻らなかった。家族というあたり前だと思っていた存在は、平和だから存在するもので、混沌とした社会の中では、わずかなところにしか存在しないのだと、強烈に気づきました」

 

吉田さんの中の「はて?」が生まれた瞬間なのかもしれない。『虎に翼』では寅子の母・はる(石田ゆり子)や、親友で義姉の花江(森田望智)は、専業主婦として一家の屋台骨を支え、意見をきちんと申す女性として描かれた。

 

「花江はもう一人の主人公だと思って書きました。寅子が帰宅すると必ずご飯がある“家庭のプロ”。働きたい気持ちはなくても、家族を支えることに幸せを感じている女性もいます。でも人を支える側は、世の中の二番手扱いをされていることに腹が立ちます」

 

仕事をするのも、家を守るのも大事。お互いが支え合う大切さは、母から受け継いだのかもしれない。

 

「物語をつくる仕事」を目指し、芸術学部のある大学の付属の中高一貫校へと進学。順風満帆な学生時代を過ごすが……。

 

「中学3年生のとき、英語のスピーチコンテストの代表に選ばれ、私は決勝に出る予定でしたが、チームが予選で負けたため、スピーチせずに済むはずでした。けれど、同じチームの男子が、私の知らない間に勝手に出場順を変えていて。先生までもそれを認めて『早く出て!』と。準備もしていないのに、スピーチせざるをえなくなったことに腹が立ち、許せませんでした。それは違うと思っているのに、“仕方がない”というような空気感、その同調圧力が嫌で。事情を知らない周りからは、“怖い人”認定されてしまうし……」

 

相手が目上であろうと、許せないものは許せない。吉田さんは、群れること、こびることが大嫌いな自分に気づいたという。中高では、生徒会に入り、学園祭などの運営を担ったが、高校2年のときのこと─―。

 

「『ドラえもん』のジャイアンみたいなウチの父から『生徒会の会長選挙に出ろ』と言われて。“副会長ならいいけど会長は嫌”と答えると、『会長選挙に出ないなら、受験も近いし生徒会はやめろ』と。交換条件のように立候補しました。

 

結局、負けたのですが、父からは『負けることを経験することは人生の糧になる。どうせ受からないと思った』と伝えられて。自分が思うのはいいけれど、勝手に人から“人生経験になる”とか言われるのは嫌ですよね。これは今もムカついています!(笑)」

 

宇多田ヒカルの『誰かの願いが叶うころ』の歌詞に心揺さぶられたのもこのころのことだった。

 

「“誰かが願いを叶えるときには、泣いている子もいる”といった歌詞でした。100人いたら100人全員が幸せになることはない。そこには不幸せになる人が10人はいるという“真理”に気づいたのです」

 

90人の幸せを100人の幸せにして描くのは違う。確かに存在する少数10人を決していないものにはしない! と心に決めた。

 

「100人中の10人の個について、『私は、あなたを透明な存在にしないし、あなたに幸せになってほしいと願っている』と、常に思いを込めて書いているんです」

 

その後、日本大学藝術学部文芸学科へ進学。大学1年のとき、脚本家の道を開く出会いがあった。知り合いの劇団を手伝いに行ったのをきっかけに『とと姉ちゃん』(’16年)の脚本家の西田征史さんを中心にした作家・脚本家の事務所へ出入りすることになった。

 

「脚本のお手伝いをさせてもらうことになり、すぐにラジオドラマのコンペに通り脚本を書きました」

 

そして20代でドラマ、映画、アニメ、小説と“職業としての作家”を実現していった。

 

「私は1本だけの作品に時間を費やして集中するよりも、同時にいくつかの作品に向き合うほうが、作品との距離感がうまくつかめます。また映画は書いても作品に成就しないこともあります。常に仕事をこなしたくさんの作品を書くのは、本当に書きたいものを書くための種まきでもありました」

 

小説『脳漿炸裂ガール』(’13年)シリーズは、累計発行部数70万部を突破。仕事は順調だが、吉田さんの中ではある変化も起きていた。

 

「私は嘘をついたり、とりつくろうのが苦手です。口が小さいせいか『機嫌悪いの?』と、怒った顔に見えるといわれる。それまでは、仕事するならニコニコしてなきゃと頑張って、“スンッ”となったりもしてきましたが、20代半ばで、無理はやめました(笑)」

 

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