現在は「仕事を辞めたつもりだった」という三上博史 画像を見る

映画『私をスキーに連れてって』(1987年)で脚光を浴び、その後、ドラマ『君の瞳をタイホする!』(1988年)、『君が嘘をついた』(1988年)、『世界で一番君が好き!』(1990年)などフジテレビの「月9」をはじめ、数々の話題作に出演。“トレンディードラマのエース”として一世を風靡した三上博史。

 

超多忙な20〜30代は、パリ、ニューヨーク、カルフォルニア、イギリスと海外で暮らし、仕事があるときは日本に戻ってくるという生活スタイルだったが、20年ほど前から日本に拠点を移し、現在はひっそりと山暮らしをしている。

 

「なぜ、田舎暮らしを始めたのか?面白い理由は何もないです(笑)。面倒くさがりで引越しも嫌いだから、20年、渋谷に住んでいたんですけど、とにかく荷物が多いので、ボロくてもいいから広いところじゃないとと思ったんです。最初、八王子あたりに倉庫を借りようとも思いましたが、結構、レンタル代が高くて。それで、山のほうだったらもっと安く住めるし、荷物も置けるわ、と。本やレコード、あと服ね。服はもうゴミ袋に入れて50袋くらい捨てたにもかかわらず、すごい量ですよ。いまだに段ボールだらけだもの。だから、畑で野菜を育てていますとか、狩猟生活していますとか、絵に描いたような話は、俺にはないです(笑)。野菜はね、ご近所の方からもらうのは好き。今年は、残念なことに枝豆が全然もらえなかったんですよ、暑かったせいで。いつも楽しみにしているんだけど(笑)」

 

カメラの前で、次々とポーズや表情を変える姿は、なるほど、のんびりと田舎暮らしを楽しんでいる人ではない。そんな三上が目下、全精力を注ぐのが、11月26日の東京を皮切りに京都、仙台、福岡で巡演される『HIROSHI MIKAMI HEDWIG AND THE ANGRY INCH【LIVE】』だ。’04年に日本で初演されたミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』でオリジナルキャストを務めた三上とロックバンドが、初演から20周年を記念してライブバージョンで復活する。

 

「初演時を振り返ると、すごく自由に、本当に泳ぐようにやれたという記憶があります。また、日に日に客席側の熱が上がっていくのが板の上にいても伝わってきて、大きな手応えを感じました。それはもう、毎日、1段ずつ階段を上がるように歓声や拍手が変わっていく。それまでの自分の音楽活動のライブでは得られなかった、人の熱量みたいなものを初めて感じたんです」

 

もともと、三上がヘドウィグに出会ったのは、アメリカを一人旅しているときだったという。

 

「そのころは、アメリカの西海岸に自分のアパートがあったんです。ふらりと立ち寄った小さな街で、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の舞台を偶然観ました。何も予備知識はなかったのですが、音楽がものすごく印象に残って、20代からやってきた自分のバンドでこういうのをやれたらいいだろうなって思ったんです。それで、日本に帰って来て、ヘドウィグっていうのがあってね、と周囲の人たちに話したら、これから日本でも公演しようと思っていると聞いて。その後、紆余曲折の末、僕にお話が来て、初演をやらせてもらうことになりました」

 

東ベルリンで生まれ育ったヘドウィグは、愛と自由を得るために性転換手術するも、手術ミスによりアングリーインチ(怒りの1インチ)を残されてしまった。自らの生い立ちと心情をせつなくも情熱的に語り、『オリジン・オブ・ラブ』や『アングリー・インチ』などの名曲を歌い上げた三上。そのセクシー、かつ力強い歌声と圧倒的な存在感は見る者を魅了した。

 

やがて、公演を重ねるごとに熱狂的なリピーターを生んだ舞台は、観客の再演を望む声に応える形で翌年、再演が実現。三上のヘドウィグは、伝説となった。

 

今回は、三上博史とロックバンド“アングリーインチ”のライブバージョンで進行される。

 

「ヘドウィグの扮装はします。でも、今日も靴のフィッティングとかしたんですけど、20年前と同じような10センチのピンヒールを履くのは無理だろう、と。今回は、お芝居はなくて曲だけの披露になりますが、20周年のお祭りだし、もともと楽曲をやりたいと思っていた僕からすれば、最初に戻るような感覚です。本家のジョン・キャメロン・ミッチェルの音は、エイティーズのブリティッシュサウンドで軽い感じにしているところを、僕らは、あえて重低音を意識して日本オリジナルのヘドウィグに挑戦しました。今回、舞台をともにするメンバーは、以前から、ずっと付き合ってきたミュージシャンたちで音楽活動を休んでいた人もいますが、オリジナルの顔が勢揃いします。僕らの20年間の人生がステージに現れると思うので、深みも増して面白いことになるだろうなと思っています」

 

三上博史といえば、15歳で寺山修司に見い出され、寺山が監督するフランス映画『草迷宮』で鮮烈にデビュー。寺山から、「お前は俺の演劇に出なくていい」と言われ、自分は舞台に向いていないと、長年、演劇を避けてきたそうだ。しかし、’03年に寺山修司没後20年記念公演『青ひげ公の城』に主演したのを機に、活動の場を舞台にも広げた。

 

「当時40歳くらいで、役者をやめようと思っていたんです。人様にさらす姿じゃないというのもあったし、もういいかなという思いが強かった。それが『青ひげ公の城』という作品で、こんなに自由に生きられる場所があるんだ! と目から鱗が落ちるように先が開けたんですよ。そこからですね、演劇に傾倒していったのは」

 

演劇を本格的に始めてからの三上は、蜷川幸雄さん演出の『あわれ彼女は娼婦』や『タンゴ・冬の終わりに』などに主演。演劇の世界でもその名を轟かせた。また、そのいっぽうで、青森県三沢市の寺山修司記念館で追悼ライブを何十年間にわたって続けてきた三上。今年1月、寺山の没後40年記念の舞台『三上博史 歌劇』ではライブと演劇を融合させたオリジナル作品を自ら構成・主演した。

 

この20年間の月日のなかで、役者として心境の変化はあったのだろうか。

 

「とにかく、昔はいまよりもっとギラギラしていましたよ。30代のころは、『絶対、賞を取ってやる!』とか言ってたもん(笑)。でも、いまは全くそういう気持ちはない。精神的に自由になったといえばそうかもしれないけれど、感覚的な自由というよりも、求められるがままが楽しいって感じなんですよ。結局、何事も出会いだから、求めてもその通りにはいかないし、逆に思い通りにいかないことが面白いこともある。意外なところから思わぬものが飛んできて、それが楽しんですよ。だから、自分がこうなりたいとか、この場所に行きたいとか、あんまり考えない。40歳のときが、“仕事を辞めるつもりだった”なら、いまは、“辞めたつもりだった”というのか、そもそもやめるって宣言するものなのかもわからないし、その線引きがわからない。いまはそんな心境です」

 

「全く欲がなくなった」と言う三上に、実は、ヘドウィグの初演を観て感動して泣いたことを伝えると、「そういう反応がいっぱいあるのは嬉しい。それが欲といえば欲」だと返ってきた。

 

「人を揺さぶりたいというのはありますね。それが同じ役者だったら、反面教師でも、『こんなダサいことはしたくない』でもいいんですよ。それで、その人たちが自分とは違う道を見つけてくれればいい話で。でも、本気でやってますよ、っていうところは見せないと」

 

最後に、今回のステージを見る人にどういうメッセージを届けたいのかを聞いた。

 

「 “綺麗に生きよう”ってことを言いたいですね。綺麗に生きるってすごく難しい言葉だけど、僕はずっとそう考えていて、残りの人生は綺麗に生きたいと思っています。これ以上汚れたくないし、濁りたくないし。勝ち負けでもなく、そういう境地に達するのが理想です。そしてライブ終盤にはには、“大丈夫”というところを届けたいかなあ。それが5分ぐらい歌ったところで伝わるかはわからないけど、もういいじゃん! って、そんなに傷だらけにならなくていいんだよって言ってあげたい。人って、結構気づかずに二進も三進もいかなくなっちゃうことが多いからさ、とにかく大丈夫だからって、聞く人に寄り添えるライブにしたいと思っています」

 

(ヘアメーク:赤間賢次郎[KiKi inc.]/ スタイリング:勝見宜人[Koa Hole inc.])

 

ジャケット 88,000円
シャツ 44,000円
パンツ 44,000円
シューズ 71,500円
(すべて GALAABEND/3RD[i]VISION)


電話:03-6427-9087

 

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出典元:

WEB女性自身

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