やなせたかしさん&暢さん 穴あき共同トイレにも大喜び!国民的漫画家を後押しした“はちきん妻”の素顔
画像を見る アトリエでのやなせさん(写真提供:やなせスタジオ)

 

■「勝ち負けで逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」

 

やなせたかしさんこと柳瀬嵩さんは、’19年2月6日に生まれ、高知県の在所村で育った。

 

「幼少時代は、家族との別れが続きました。5歳のとき、朝日新聞の広東特派員として中国に単身赴任していた父が現地で死亡。弟の千尋さんは医師だった父方の伯父夫婦に養子として引き取られたのです」(梯さん、以下同)

 

小学2年生のころには、母が再婚するため、やなせさんもまた伯父夫婦の元へ。

 

「母との別れ際、白いパラソルをさして去っていく後ろ姿を、いつまでも見つめていたそうです」

 

やなせさんは、経済的には不自由のない生活を送ることができたが、母のぬくもりを感じることができなかった。

 

「大きな欠落、孤独を抱えていました。その幼少期の寂しさを埋めてくれたのが物語や絵。布団の中にも本を持ち込むほどでした」

 

画力を生かすため、一浪の末、高知から上京して東京高等工芸学校工芸図案科へ進み、卒業後は製薬会社の宣伝部で活躍。しかし1年後の’41年に召集令状が届いた。

 

戦況が悪化した’44年、やなせさんは中国の前線へ送り出されることに。輸送船に乗せられて福州(現在の福建省福州市)へ行き、米軍を迎え撃つはずだった。かつて梯さんは、やなせさんとの対談企画で、初めて本人の口から戦争の話を聞いたという。

 

「先生の部隊がいた福州に、結局、米軍はやって来ませんでした。上海への移動命令が出て、先生たちは1千キロを行軍することになったといいます。

 

待ち伏せする中国兵と交戦して、戦友の死にも直面。また上海に到着後にはマラリアに感染し死線をさまよったことも……」

 

だが、何よりもやなせさんを苦しめたのは、強烈な飢えだった。

 

「食事は、飯粒がお湯に浮かんだうすいおかゆだけ。野草やたんぽぽ、茶を飲んだ後に出る茶がらなど、口に入るものは何でも食べて、飢えをしのいだそうです」

 

やなせさんたちの部隊が上海決戦に臨む前に日本は敗戦。ようやく’46年1月に帰国した彼を待ち受けていたのは、最愛の弟が戦死したという知らせだった。

 

「戦争で生き残った人たち同様、先生もまた、死者に報いるため、どのように生きていくべきか、自分に問い続けたはずです」

 

終戦によって価値観が一変したことに、戸惑いを隠せなかった。日本は正義のために戦ったわけではなく、中国人を虐げる存在だったと、教師も政治家もメディアも論調をがらりと変えたのだ。

 

「戦争の勝ち負けで逆転してしまう正義は、本当の正義ではないと思い知ったといいます。そんなとき、空襲で焼かれた町で廃品回収していると、ある光景を目にしました。

 

それは自分は食べずに子供に食べ物を与える親の姿、そして子供同士が一つの握り飯を分け合う姿でした」

 

その体験は数十年後、自らの顔を飢えた人に分け与えるアンパンマンというキャラクターを生む要因のひとつになる。

 

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