■「人生が迷子の状態でも、一つだけ決めていたのが漫画家を貫くこと」
「『いったんお別れしようか。籍は抜くけれども、これまでどおり君といっしょの暮らしは変わらないから』と言われて……。いまとなっては、愛人から離婚を迫られたからだと理解できますが、当時はなぜ籍だけ抜く必要があるのか、意味がわからなかったです。
私は別れたくないし『病気? 自己破産? 借金? 何かあるのなら助けになるから』と。もし夫がお金に困っているなら、何があっても助けるつもりでいたんです」
しかし問い詰めても彼は、「理由を言ってもお前は許してくれない」と繰り返すばかり。翌日になってようやく、かつて交際していた女性と不倫をしていることがわかったのだ。
「話が前後しますが、その7年前の’14年、私のSNSにメッセージを送ってきていた女性がいたのです。スパムメールに分類され、気づいたのは’16年でしたが、メールには、“あなたの夫と付き合っている”“30万円の鞄をプレゼントされた”“いっしょに旅行に行った”などと書かれていました」
彼は「イタズラだ」と笑い飛ばしてくれると期待したが、メールを転送すると否定の言葉はなく、《帰ったら説明する》と返信が。
「しかも、その日じゅうには帰ってこず、夜中3時になってこっそり帰ってきました」
彼は、その女性と会ったことは認めたが、「彼女は離婚して落ち込んで、慰めただけ」「じつは元カノだから、君には言えなかった」と平謝り。「キスした?」「してない」というやり取りもあった。
「でもそんなのは信じられません。『わざわざ妻にメールするくらいだから、何か誤解されるようなことをやったよね!』と、私も厳しく問い詰めました……」
それでも一度は矛を収めたが、結局、’21年に夫から不倫を告白されることに。しかもその相手が、かつてメッセージを送ってきた“元カノ”だと判明したのだ。
「またなの! って。もう、衝撃ですよ。彼は子供たちの学費は払ってくれていましたが、生活費は出していませんでした。
自分の給料で好きな輸入車を複数所有することも、ゴルフや釣りに行きたい、会社を辞めたいと言ってきたときも、全部許して応援してきましたが、不倫だけは許せない裏切りでした」
どんな女性なのか顔を見てやりたい。そんな思いから、夫、姑、愛人を交えた四者会談をした。
「どんな美魔女かと思いましたが……。50代のふつうのおばさんでした。でもネイルやメークなど女子力は高そうでしたから、夫はいっしょにいて楽しかったのでしょう。こちらは子育てや仕事でクタクタに疲れているわけですし、’16年に怪しげなメールを発見してからは“不機嫌な妻”で、ことあるごとに『○○(愛人の名前)のところに行けば。何もかも捨てる覚悟があるなら止めない』などと嫌みを言っていましたからね」
四者会談は午前11時から4時間近く続いた。夫にとってはさぞや針のむしろだったろうが……。
「私も愛人も飲まず食わずで話しているのに、彼だけコーヒーを飲んでいました」
そんな姿もいちいちカンにさわった。
愛人は夫が借りたマンションで週の半分を過ごしていたこと、夫の友人たちとも交流があることなど、“私のほうが愛されている”とマウントをとってきたという。
「たしかにコロナ禍のとき、夫は友人の家で飲み会をして、そのまま泊まったりしていました。私には男友達との写真を送ってきたのですが、その会に愛人も同席していたみたいです」
夫と愛人、友人とその不倫相手の4人で金沢旅行に行っていたことも判明。
「そのときは、私に男友達の名前だけ告げていました。真実を交ぜると、嘘ってわからないもの。友人を味方にして“不倫の団体戦”を繰り広げていたわけです」
姑は終始「本当になんてひどい話!」「好きなだけでは世間では通用しないよ」と、楠さんの味方をしてくれたこともあり、夫と愛人が不倫関係を終わらせるということで四者会談が終了したが、その後も愛人は楠さんに情報提供を続けたという。
「私たちを一刻も早く離婚させて、夫と復縁したかったのでしょう。ずいぶんいやらしいプレイもしていたみたいです。何かと聞くと、大人のおもちゃを使ったと。2人の間の生々しいメールのやり取りも見せつけられました」
成人となっていた長女に相談すると「離婚一択」とアドバイスしてくれたが、中学生だった長男は離婚に反対。それに、いま離婚したら夫と愛人は喜んで復縁するはずだという思いもあった。
「四者会談後の訴訟で、慰謝料も取りました。夫と愛人が連絡を取ったらそのつど、罰金をもらうという合意書もあるので、すぐに離婚するのは損だとも思いました。
散々セックス自慢されたので、10年くらい仮面夫婦を続けて、夫が愛人とセックスできない年齢になってから離婚することも考えました」
さまざまな葛藤もあったが、長男を立派な大人に育てることを、せめてもの夫婦の義務としようと、2年半をめどに離婚すると決めた。
仮面夫婦を続けながら、長男が大学受験に合格し、一人暮らしをするタイミングを見計らって離婚を発表することに。
「離婚に反対していた長男ですが、『あのときはガキだった』『(愛人と復縁したら)オレが殴りに行って、父子の縁を切る』と、離婚を後押ししてくれたんです。長女も私の幸せを願ってくれました」
許したい思いと許せない思いが交錯し、心療内科に通い精神安定剤を飲まなければ眠れず、“死のうかな”と、ふさぎ込むほど傷ついた楠さん。だが離婚とともに、一部始終を漫画にする決意をする。
「離婚して多くを失って、新たな目標も見つからない。人生が迷子の状態でも、一つだけ決めていたのが漫画家を貫くこと。実は離婚後も元夫の名字は変えていないんです。私にとって本名はどうでもよく、いちばん大切なものは『楠桂』という名前なんですから」
デビューから大事にしてきた漫画家としてのアイデンティティーは楠桂の名に込められているのだ。
元夫は「他人の離婚話なんて誰が読むの」「君が恥ずかしいだけだよ」と言ってきたが、
「いや、恥ずかしいのは私じゃなくて、元夫や愛人ですから! 私はお酒も飲めないし、ストレスの解消法も知りませんでした。でも、離婚の顛末を漫画として描いてみたら、気持ちがスッキリしてきたのです」
つけたタイトルは『サレ妻漫画家の旦捨離戦記』。旦那を処分したので、“旦捨離”としたのだ。
自らの苦しみもエンタメとして漫画に昇華して、読者に訴え続ける。やはり楠桂さんは根っからの漫画家だった。
