美容本がベストセラー、電撃結婚……人生の節目で「シリーズ人間」の取材に応じてくれた女優・藤原紀香が今回、18年ぶり3度目の登場となる。アラフォー以降の彼女の人生を大きく変えたのは、’16年、片岡愛之助との再婚だろう。多忙な女優業と、歌舞伎役者の夫を陰で支える梨園妻との二刀流に奮闘するなか、一年ほど前の年末は夫の事故で人生最大の危機が訪れていた。激動の一年、片岡家に再び“笑顔の花”が咲くまで──。
「単なる仇打ちや、善と悪、正義はどちらか、という話ではなく、世の不条理と闘う武士たち、夫婦の信頼、家族への愛、己の生き様が描かれた堤幸彦演出 令和版『忠臣蔵』は日本の方々の琴線に触れる作品。“切り口も新しく、台詞が魂に響いた!”などお客様がとても喜んでくれています」
凜とした佇まいで現れた藤原紀香(54)はこう語り始めた。柔らかな鴇色の訪問着に淡く落ち着いた帯。品格が漂う装いで取材現場の空気が一瞬で華やかになった。現在、上演中の舞台『忠臣蔵』(明治座ほか名古屋、高知、富山、大阪、新潟 1月31日まで)では大石内蔵助の妻・りくを演じている。
「夫が座長を務める一年一度の出石永楽館歌舞伎に同行した際には、兵庫県・豊岡の遺髪塚に手を合わせに行きました。『いつか、りくさんを演じられますように』と。本当にありがたいご縁です」
内助の功の鑑として知られるりくだが、共通点を聞くと──。
「夫にとって最良の環境を整えることに尽力するのは似ているかもしれませんが、夫が死ぬとわかっていながら『はい』と気丈に送り出せるかどうか……。とはいえ、妻としてできることを120%やりたい気持ちは同じです」
取材前日には夫で六代目片岡愛之助(53)が出演する『吉例顔見世大歌舞伎』の千穐楽があった。
「忠臣蔵の稽古を終えた足で、急ぎ歌舞伎座へ。昔からの贔屓さんにもご挨拶できました。さすがに自身の公演中は舞台に集中しますがそれ以外、行かれるときには行って後ろで歌舞伎を見ます。勉強になります」
自身も役者として舞台に立ち、一方で梨園の妻として劇場に足を運び贔屓筋への挨拶を欠かさない。「さぞ大変では?」と聞く記者の問いにふわりと笑ってこう語った。
「大変という言葉でまとめてしまうと気持ちがダウンしてしまう。だからその言葉は使わないようにしています。俳優として33年。“歌舞伎役者の妻”として10年目。どちらも片手間にならないようにとできることを懸命にやってきました。“できないことは無理にやらず、できることをフルスロットルで”。この軸をしっかり持つことが大切だと考えています」
「シリーズ人間」への登場は過去最多となる3回目だが、これまでの彼女とは違う雰囲気を感じた。
■「当初は股関節が動かず歩けなくなったこともありました」
「終日、着物と硬い草履で内股で階段の上り下りや窮屈な状態で歩き続け、翌日に、13cmヒールでロングドレスを着て、今度は外側に重心を置いて闊歩する日々。そんな生活が始まった当初は股関節が動かず、歩けなくなったこともありました。医師から『体が“私は和なの、洋なの? どちらに適応させる体にすればいいの?”と悲鳴をあげた状態になってます』と言われたことも。でも“早く慣れてね。私はこれからも和洋折衷よ(笑)”と細胞一つ一つに語りかけ続けました。順応するまで数年かかりましたが、今はまったく平気です」
’92年大学在学中にミス日本グランプリを受賞、仕事を始めながら神戸の震災後の’95年に上京。多くの苦難を経て、華やかな舞台に立ちながら伝統と格式を重んじる梨園の妻でもある紀香。多忙な二刀流生活はこんな感じである。
「睡眠時間は3時間ほど。夫の地方公演の初日は朝3時起床で、髪結い、着付け後、始発の飛行機で出発。本来は何日か前に夫や番頭さんやお弟子さんと共に前乗りし、土地のものをいただき、初日朝に着物を着て、10時30分からお客様を迎えるのが理想です。しかし前日まで自身の仕事がある場合も多いので、当日移動。俳優業と違いマネージャーもいないので自身で切符を買って何個もカバンを抱えて乗り継ぎ、移動。
今回は、忠臣蔵の名古屋公演が終了した翌日はちょうど1月松竹座初日なので名古屋で着付けて大阪へ。そして数日後、次の高知公演へ飛び、そこからまた松竹座の貸し切り公演があるので大阪へ戻るため、高知から飛びます。スケジュール帳の書き込みがすごいことになっていて面白いです」
今までの経験は今の人生の糧になっているという紀香。離婚もそのひとつ? という問いに、
「昔は昔。今は感謝と学びしかありません。“自分にはどんな人が合うのだろう”ということも学べました。あの経験があるから、今の幸せがあると思いますし、過去にご縁があった相手も、今、幸せでいてくれていることがうれしい。それがすべてです」
そして「人生は修行」と、ひとつ息を吐きながらこう続ける。
「その修行を生きていくうえでつらいことが起こるのは当たり前のこと。ただ神様はギリギリのトライアル(試練)をしてきます。それを乗り越えたらまた心も強くなる。私、とことんタフですよ。心身ともにタフでないと、これからの人生楽しめないですもの(笑)」
’07年には赤十字広報大使に就任。アフガニスタンやカンボジア、東ティモール、モザンビークなど国内外の被災地支援や啓発活動に関わってきたこともかけがえのない経験。’11年の東日本大震災では、自身のNPOの活動や日本赤十字広報特使として、幾度となく被災地を巡っている。
「大きな被害を受けた浪江町(福島県)から避難されてきた方々と一緒に故郷の浪江の歌を歌ったり、国見町の方々とお餅つきをしたり。そんななかでも“寒いだろー? カイロを持っとげー”と手に握らせてくださったり、“痩せてないか?”と心配してくれる人も。大変なはずなのに逆に励ましてくださる方々の優しさに胸がいっぱいです。今も定期的にやりとりをしているご家族もいます。“寄り添いたい”と願いながら向かうのに、いつもこちらが元気をもらってしまう」
そんな活動のなかには、大きく実を結んだプロジェクトもある。
「長年続けているNPOスマイルプリーズの活動でカンボジアに15年前に建てた学校を再び訪れたときのこと。『私を覚えていますか』と声をかけられて。その竣工式で『教師になりたい』とスピーチした女子生徒でした。成長して夢をかなえ、私たちが建設した学校で教えていたのです。涙腺が緩みました。これまで5校、カンボジアに建設していますが、心がけているのは学校を建てて終わり、ではなく定期的に校舎を修繕したり足りない図書や教材を届け、持続可能な形にしていくことです。またそこでも素晴らしい出会いもありますし、ボランティアやチャリティ活動は、仕事ではないけれど自身の心を元気にしてくれるものだと思います」
