■「両親は離婚の際、憔悴しきった私を見て芸能界の人とは…という思いが強かった」
大阪・関西万博では日本館名誉館長を務め、国内外からの賓客を迎え、日本の文化を発信した。
「日本が古の時代から柔らかなものの考え方や知恵を生かしやってきたことが、今の最先端の技術と結びつき、今ではその多くが世界へ発信されている。日本館を訪れた若い世代の方が“日本を見直すきっかけになりました”“未来が楽しみになりました”と言ってくれることが多くうれしかったです。
万博はさまざまな世代が環境問題や貧困問題に対してひらめきや刺激を得る場所。それが未来への行動を起こすスイッチになるはずだと。来場した人だけでなく来られなかった人にもそのレガシーは広がっていくのだと思います」
さまざまな経験が、人として一回りも二回りも大きく成長させたのかもしれない。
’16年には片岡愛之助と結婚。’11年の紀香主演の舞台を愛之助が観劇したことがきっかけで交流が始まり、震災支援などを通じて信頼関係を深めていった。
「東日本大震災のとき、自分のNPOを通じ活動をしていたのですが、エンタメ、スポーツ界など多くの方々が協力してくださいました。そのサポートフレンドのひとりが彼でした。映像の世界からスタートした私が舞台の大先輩である彼から教わることも多く、そして何よりも人として尊敬できる人でした。ただ、この人は特殊な世界の人なのだ、と思っていたので友達の期間は長かったですね」
仕事へ向き合う姿勢、分け隔てなく誰に対しても優しい。仲間に対しても真面目で公平な愛之助。お金の感覚、外食より家で食べるほうが好き、味つけの好み、育った環境、地はのんびりしているところ……。友人から尊敬の思いが強くなり、そして愛情へ。共通点が多い2人が、結ばれるのは自然の流れだったのかもしれない。
しかし、障壁があった。まずは紀香が梨園の妻になることだ。
「『仕事は続けられない?』と聞いた私に対し、彼は『辞める必要はない』と。自身が築き上げてきた30年の歴史のなかにスタッフやファンの人たちがいる。『その人たちを悲しませてはいけないし、自分の世界はちゃんと持っていたほうが絶対にいいと思う』と言ってくれました」
さらに厳格な紀香の両親への説得も残っていた。
「両親は彼と会う会わないという以前に、そもそも離婚の際、憔悴しきった私を見て“芸能界の人とは二度と付き合ってほしくない”という思いが強かったので……。彼の人となりをとにかく知ってもらいたくて親友たちの力を借りて両親と彼を会わせたのですが、なんと1時間後には皆でビールで乾杯していました。彼の性格や地を知ってもらえれば両親にもわかってもらえると思っていました」
■「お姉様の言葉で勇気づけられた」大先輩・扇千景さんへの感謝
愛之助との結婚当初は、梨園の妻としてやっていけるかと懸念する声もあった。そんな彼女に、歌舞伎役者の妻の先輩として、多くの言葉をかけてくれたのが四代目坂田藤十郎の妻であり、俳優から政治家、さらには国土交通大臣を務めた扇千景さんだった。
「歌舞伎役者の妻といっても“家”によって決まりごとや考え方が違い、仕事を持っている方もいれば、専業で足繁く劇場に通われる方も。ほかの世界と同じようにいろいろなパターンの夫婦、家庭のカタチがあることを知りました。多くの歌舞伎界のお姉さん方からも教わりましたが、扇千景お姉様は“私は大臣やっているときは劇場には行けなかったわよ。あなたは女優の仕事をしてるのだから、劇場には行けるときに行けばいいのよ。胸を張って自分の仕事をやりなさい。愛之助さんもそう言ってるでしょ”と笑顔で優しくお声をくださいました。国会議員を辞められてからは、劇場にいらしていたお姉様のお姿をよく拝見していました。
それまでの私は劇場に行けない日はなにかと不安でしたが、お姉様のお言葉で勇気づけられましたし、夫が私の仕事を応援してくれているなら臆することはない。そのかわり時間があるときはやるべきことをMAXやろうと思えるように。お姉様はお優しい言葉をいつもかけてくださる方でした。お亡くなりになって本当に寂しいですが、天国で藤十郎お兄様と仲よくお手をつないでお散歩していらっしゃるのではと思っています」
紀香は、仕事の傍ら梨園の妻として書、お花、薬膳料理などの稽古を再開。陶芸では愛之助好物の秋刀魚専用の長皿や、ステーキと大根おろしソース用の三日月形の皿を製作。また、正月前には毎年、2千枚の年賀状の用意。愛之助名義だけでなく彼の踊りの家元名、本名、彼個人、2人の連名など多様なパターンがあるという。
「さすがに全部は手書きできませんが、毎年、書で文字を書き自分で彫った落款、デザインも考えてレイアウトなどを持ち込み、神戸の印刷所の方々とクリスマスの夜中までやりとりしています(笑)。今年は喪中なので残念ながら新しいデザインはご披露できませんが」
コロナ禍ではすべての仕事が止まってしまったため、500円玉ほどの大きさの円形脱毛症になった。気分転換に自宅でふだん見られなかったドラマや昭和の映画などに浸り、改めてエンタメの大切さを再確認したという。女優業に加え、歌舞伎の世界に触れたことで彼女の価値観はどのように変わったのだろうか。
「実際に劇場のロビーに立ってお客様をお迎えすると、どんな悪天候でもチケットを握りしめて来てくださる方がいたり。その帰り際に“本当に元気をもらえたわ。ありがとうと伝えて”と。心が震える瞬間も多いです」
豪雨水害で中止になった広島での1カ月後の再公演では──。
「女性が『チケットが見つからなくて水の中から探したの』とぬれて文字がにじんだチケットを乾燥させて持ってこられて……。こんな思いをして見に来てくださるのだと涙が出てしまいました。大変なことが起こり、人が立ち上がろうとするときに、そっと心に灯火を、少しでも背中を押せるような……。私たちの職業はそんな役割を担っているのだと以前より強く感じるようになりました」
歌舞伎役者として人気、実力を着実に向上させていた愛之助が大きな悲劇に見舞われたのは’24年11月。京都南座での舞台稽古中に高さ7mから落ちてきた幅2mの木製パネルが顔面を直撃したのだ。同時期に、紀香の当時の所属事務所が破産する不幸にも見舞われた。紀香がこう振り返る。
「夫の知らせを受けたときは全身から血の気が引く思いでした。病院に行くと、顔中包帯がグルグル巻きで、無事だった右目には生気がなくて絶望の色が……正直、“復帰できるのだろうか”という思いが頭をよぎりました」
上あごと鼻の骨を骨折したと発表されたが、愛之助のケガはそれ以上にひどかったという。
「エビ反りで上を向いている姿勢だったので落ちてくる板を避けられず、ただ、ほんの少し顔を動かせたので九死に一生を得て、眼球に当たらずに済んだそうです。
主治医の先生からは『あと数センチで失明していた。もう少し位置が違えば、額、喉、首の骨、そのいずれも即死だったかもしれません。運がよかった』と言われました。本人がいちばんつらいはずなので、笑顔で“手術、よくがんばったね”と声をかけました。夫は力なく、かすれた声で『うん……』と言うだけでした」
絶望──。愛之助がそこから這い上がる傍らには、紀香の献身的な姿があった。
「リハビリでも彼は痛みや焦りを口に出さないので、無理していないか、本当は痛いのでは、と心配でした。時々、『本当に元に戻るんかな』と言うので『もちろん戻る!』、そんなやりとりが続きました。思うように動かせない箇所もありましたが、とにかく少しずつ動かし、顔の筋力やバランスを取り戻していきました。
なにより、夫が再び舞台に立つ自分が想像できるようにポジティブな言葉を言い続けました。笑うことも大事だと思い、アホなことばかり話してたら『筋肉くっつかへんし、痛いから笑かさんといて』と言われました(笑)。ただ心の中では“元どおり動かせるようになるのかな、台詞はきちんと言えるのか”という思いも……」
リハビリをしていた当時の愛之助の姿を思い返したのか、紀香の目もとにうっすら涙がにじむ。
「自宅療養となり、家で食事が食べられるようになりホッとしました。カツレツ、オムライス、ナポリタンなど子どものように食べたいものをリクエストしてくれました。『食べることは大事やな』とゆっくりかみしめていました」
’25年3月、愛之助は歌舞伎座で見事、復帰した。
「お客様が止まらない拍手で迎えてくださって。家族と同じ思いで待っていてくれた。その思いに触れた劇場の空間はかけがえのないものでした。感謝しかないです。今思い出しても鳥肌が立ちます」
大事故から再起した愛之助が演じたのは『仮名手本忠臣蔵』で大石内蔵助をモデルにした大星由良之助役。そして紀香は今まさに大石内蔵助の妻りくを演じている。ご縁とはこういうものなのだろう。
(取材:坂野敬人、文:山内太、藤原紀香特写分・ヘアメイク:折戸見千瑠、スタイリスト:今井聖子)
【後編】結婚10周年“梨園妻”藤原紀香語る「夫婦で見た映画『国宝』」「“部屋子の母”の感慨」へ続く
画像ページ >【写真あり】大阪万博の閉幕日には「皆さんの心にまかれた小さな種が未来に向かって大きな花へと咲き誇りますように」と挨拶した紀香(他4枚)
