デビュー60周年……加藤登紀子さんと娘Yaeが明かす“子育て秘話”と最愛の夫・藤本敏夫さんとの別れ
画像を見る 加藤登紀子とYae。鴨川自然王国にて(撮影:保坂洋也)

 

■娘のデビューが病床の父の希望となった

 

おときさんは子育ても、いい意味で“サボった”と振り返る。3人姉妹のなかで、いちばんやんちゃなYaeが思春期を迎えたころのことだった。

 

「Yaeが高校に入学して最初の面談のとき、『先生、どうですか?』と聞くと、『3日、学校に来てません』って言うの(笑)。

 

彼女に聞くと恋に夢中だという。そんな娘を、親がコントロールするのは難しい。反発から対話がなくならないように、あまり厳しい制限はしませんでした。家にいない親だったし、子育てをわざとサボったんですね」(おときさん)

 

半面、Yaeは朝帰りしたとき、おときさんから言われた一言が忘れられないという。

 

「玄関で待っている母に、心配しなくていいと伝えたら、『じゃあ、私はあなたを信じるから』と言われたんです。逐一、注意されたら反抗していたかもしれませんが、“信じている”という母を裏切ってはいけないと思えたんです」

 

両親ともに多忙で、一緒に過ごす時間が少なくても、Yaeの進路には不安を抱いていたようだ。

 

「でも、考えていることは2人とも全く逆で。母は沖縄の芸術大学、父は帯広の畜産大学をすすめてきました(笑)」(Yae)

 

だが、Yaeはどちらの進学先も選ばず、歌手としての道に進むことになる。そのきっかけを作ったのが、おときさんだ。

 

「Yaeが高校時代、私が『コルチャック先生』というユダヤ人居住地・ゲットーを舞台にした音楽劇の、音楽監督を務めることになったんです。幼いころのYaeの感性を面白いと思っていたから、キャバレーの歌手をしているユダヤ人女性を“これはYaeだ!”と感じて、オーディションを受けるようにすすめたんです」(おときさん)

 

Yaeは高校を卒業し、19歳のときに舞台に出演。

 

「音楽監督の母には戦争体感がありますが、私には、毎日が生死との隣り合わせという状況が理解できません。母からは、銃を突きつけるドイツ兵にひるまずに立ち向かう少女の写真を見せつけられ『あなたは、彼女よ!』って指導されました。稽古のときも『親子じゃなければ、きちんと向き合えるのに』って。それでまたぶつかったりしていました」(Yae)

 

おときさんも、当時を振り返る。

 

「親だと思うから甘える部分もあったんでしょう。本番直前のゲネプロのときでさえ、できていなかったので、一回だけ殴りました」

 

歌に目覚めたYaeは、音楽の道を突き進む。アルバイト先の飲食店で暇な時間に歌わせてもらうと「今度、ボクのライブで歌ってくれないか」と誘われたりした。

 

小さなライブハウスや路上ライブで経験を重ね、レコード会社からのデビューが決まった。Yaeの根底にも、藤本さんの“楽しくなければ人生じゃない”という考えが染み込んでいたのだろう。

 

そんな娘を、両親はどう見ていたのだろうか。Yaeが語る。

 

「父は『大丈夫か、そんなんで食っていけるのか』と心配していたみたいです。母には……。詳しく話しませんでした。介入させると面倒くさいことになるから」(Yae)

 

おときさんも、こう語る。

 

「何かやっているなと思っていたけど、音楽活動に関しては、何も言ってくれませんでした。 スタッフから『お母さんは、なんて言っているの?』と聞かれることもあったそうですが、Yaeは『ママが出てきたら、誰も反論できなくなるから、何も言わないで』と言われていたんです。私がYaeの曲を聴いたのは、CDができあがってからでした」

 

藤本さんのがんが発覚したのは、ちょうどそのころだった。

 

「1998年に大腸がんがわかり、手術で切除したのですが、’01年には深刻な肝臓がんを発症。かなり痛みが激しく、漢方や自然成分にこだわっていた父が、痛み止め薬に頼りきりになりました」(Yae)

 

病床の藤本さんを元気づけたのは、Yaeの歌手デビュー。CDを箱買いして入院患者たちに配っていた。しかし藤本さんの病状は悪化をたどり、食事もままならず、みるみるうちに痩せていった。

 

「自分の命がなくなっていく不安もあり、私たち家族には『もう、ダメかもしれないな』と弱音を吐くこともありました」(Yae)

 

最終的には肺にも転移したため呼吸すら苦しくなった。2002年7月、藤本さんが危険な状況に陥り、医師からも「あとわずか」と知らされ、家族が病室にかけつけた。

 

藤本さんは「まだか」とうわごとのように、沖縄から向かっている三女夫婦や初孫の到着を待っていたという。

 

病室では、おときさんが「がんばって、がんばって」と励ましていたが、藤本さんは三女一家が到着すると「もう、いいだろう……」と、酸素吸入器を自ら手で払った。

 

激動の人生を共にした藤本さんを失ったおときさんは、マスコミ向けに《2人の人生はいまからまた別の形で始まると思っています。彼が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたいと思います》とコメントを発表。

 

その《未来の夢》の一つが、鴨川自然王国だった。

 

(取材・文:小野建史)

 

【後編】加藤登紀子の娘Yaeが明かす鴨川自然王国での暮らし「いつの日か母との終のすみかに」へ続く

 

画像ページ >【写真あり】加藤登紀子さんと藤本敏夫さんと娘たち(他2枚)

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