■分娩室から戻った彼女へ、義母の第一声は「男でよかった、子供は国立に入れなきゃ」
’66年、東京・渋谷に生まれた花岡さんは、幼いころから読書好きで、小学4年生のときには、『現代用語の基礎知識』を読み、小学6年生のクリスマスのプレゼントに『広辞苑』をねだるような子供だった。
「勉強が楽しくてしょうがなくて、親に言われなくても机に向かっていました」
中学時代は成績優秀で、教師から「どこを受験しても受かる」とお墨付きをもらうほど。
しかし、中学2年生のときに持病のてんかんの発作が再発。学校も休みがちになり、周囲が期待するトップ校には進学できなかった。
「でも、入った高校が私にピッタリだったんです(笑)。服装や髪形も自由で、生徒の自治活動を尊重してくれる校風もありました」
生徒会では、制服化を要望する保護者に対して反対運動をけん引。見事、自由を勝ち取った。
生徒会は楽しい、大好きな読書もやめられない。受験勉強もそこそこに図書館に通った。
「学生運動家の樺美智子さんについて書かれた本を読んだり、在日韓国人について調べたり。インプット量はすごかったと思います」
帝京大学では文学部国文科を専攻。国語の教職課程を取り、教育実習も済ませたが、卒業後は研究生として早稲田大学大学院に進学。
父の姉妹たちも教師で、祖父は校長。親戚に教師が多かったこともあり、教師を目指した時期もあったが、社会問題ならびに文学への関心も尽きることがなかった。
「卒論担当の教授の勧めもあって進学を選択しました。大学に入ってからハマった狂言もそうですが、やはり“人の生活に現れた物語”が好きなのだと思います」
24歳のとき、ボランティア活動を通して知り合った東大卒の男性と結婚。研究生を1年でやめて家庭に入る選択をしたが、それは自分が望んだことではなかった。
「義父母が私が働くことに猛反対だったんです。在宅でもできる出版社のアルバイトを続けたいとお願いしたものの、主婦業に専念するよう強く求められました。
それに夫は、両親の意見を尊重する人で、ずいぶん話し合いもしましたが、最後は負けてしまいました」
また、花岡さん自身、どこかで「いい嫁にならなければ」という思いもあったという。
「それが魔物でした。呪いのように自分を苦しめていくとは思いも寄らず……」
ほどなくして長男を出産。分娩室から戻ったとき、義母の最初の言葉が「男でよかった」だったときは、腹を立てるよりあきれた。
「その後、言われたのが、『子供は国立に入れなきゃ』ですよ。まだ生まれたばかりだというのに!? と驚きで声も出ませんでした。
国立とは、暗に東大のことを言っているのだとすぐわかりました。それからは、子供が成長してもずっと言われ続けました」
体調の異変に気づいたのは、長男が小学校の高学年のころだった。
顔面をバキュームで吸われるような感覚が2年ほど続き、心療内科にかかった。服薬で顔の不快感はなくなったが、気持ちの落ち込みがひどかった。
体が思うように動かない状態でも、家事は当然、さまざまな活動を抱えるなか、“ちゃんとやらなきゃいけない”という思い込みが心と体をむしばんでいった。
「医師から『頑張りすぎている』と言われても、自分ではどうにもならない。あるとき、とうとうエネルギーが切れてしまって、夫につらいと打ち明けると、『仮病だ』と一言返ってきました」
重いうつ病と診断され、いつ極端な選択をしてもおかしくないところまで病状が悪化。
「暗く湿った沼の中に鼻の下まで埋まっていて、少しでも油断すると、鼻がすっぽりつかってしまうような感覚。それが波のように何度も押し寄せるので、疲れ果ててしまい、息をするのをやめたくなるんです」
道を歩いていると、引き寄せられるように線路や車道に足が向いてしまうこともあった。
そんなつらい状態のなかでも、もう少し生きようと思わせてくれた存在。それがパク・ヨンハだった。