■「最もつらく、悲しかったことは、第二次世界大戦」、復興を見守り続けられた昭和天皇
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す……」
4分あまりの玉音放送(終結ノ詔書)が流れた後、皇居前広場では号泣し、正座してうつむく国民がいるいっぽう、一部で「万歳!万歳!」という声も上がったという。
木戸幸一内大臣(当時)は覚書にこう記している。
《国民が絶望的な戦争に堪へきれず、如何に平和を望んで居たかが如実に示された様に思はれた》
終戦当時、44歳だった昭和天皇も側近の木戸内大臣と同じお気持ちだったのではないだろうか。
「皇太子時代の欧州訪問で第一次世界大戦の戦禍の跡を目の当たりにした昭和天皇は、国際平和の大切さを常に心に抱いていました。
しかし、国際情勢の変転や、国内情勢の悪化が重なり、平和への思いは次々と打ち砕かれていき、最終的には太平洋戦争の開戦決定を自ら下すことになったのです。
その結果、諸外国の人命や財産、そして多くの自国民の生命を損なうことになりました。 昭和天皇は極東国際軍事裁判の被告席に座ることはありませんでしたが、国内外から責任を追及されました。生涯、そうした声に真摯に向かい合い続けたのです」(小田部さん)
終戦翌年の1946年から1954年まで、昭和天皇は米国の占領下だった沖縄県をのぞく全都道府県を訪れる、いわゆる“戦後巡幸”に臨まれた。
「おもな目的は、慰問と復興状況のご視察です。特に戦争被災者、海外からの引揚者、引揚者が入植していた開拓地への慰問の機会は多く、昭和天皇が“戦争による犠牲者”に対して、強く責任を感じていらしたことが伝わってきます」(前出・皇室担当記者)
戦後巡幸2年目の1947年12月、昭和天皇は原爆が投下された広島県をご訪問。原爆の傷痕を残す中学校の授業などを視察されたり、病院で被爆者を慰問されたりした。
《ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり》
原爆ドームの近くを車で通りかかった際に平和の鐘が鳴ったという情景を詠まれた御製(和歌)だ。
戦後巡幸終了から21年後の1975年10月、昭和天皇は記者会見で、在位中にもっともうれしかったことという質問に、こうお答えになった。
「終戦後、日本国民が努力して立派に日本の復興ができたということがいちばんうれしく感じる。(中略)最もつらく、悲しかったことは、第二次世界大戦」
後半生をかけて日本の復興を祈り続けた昭和天皇が崩御したのは1989年1月。
「1988年夏には、那須御用邸に滞在されていました。前年に腸の通過障害のためバイパス手術を受けており、手術前から体重も激減し、体力も低下されていました。それでも8月15日の『全国戦没者追悼式』には『ぜひ出席したい』と希望されたのです」(前出・皇室担当記者)
車での移動はお体への負担になるということで、昭和天皇はヘリコプターでご帰京。式典中の壇上では、侍従長がそばに控えなければならないほど、周囲がご体調を心配するなかでのご出席であり、これが87年の生涯で最後の公式行事へのご臨席となった。