■国内だけではなく海外へも。慰霊の旅をライフワークにされた上皇ご夫妻
「日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つあると思います。(終戦記念日と)昨日の広島の原爆、それから明後日の長崎の原爆、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙禱を捧げて、今のようなことを考えています。そして平和のありがたさというものをかみしめ、また、平和を守っていきたいものと思っています」
1981年8月7日、当時は皇太子だった上皇さまは、記者会見でそう語られた。これが“皇室にとって忘れてはならない四つの日”が、人々の心に刻み込まれた瞬間となった。
皇室ジャーナリストの久能靖さんは、
「沖縄では激しい地上戦が行われ、多くの住民も犠牲になりました。また昭和天皇はご生前、沖縄ご訪問を強く希望されていましたが実現しませんでした。それだけに上皇さまも沖縄への強い思いを抱かれていたのです。
最初のご訪問は1975年、本土復帰から3年後のことでした。現地には複雑な感情が残っており、過激派も次々と沖縄に乗り込んでいました……」
ご学友のなかにも「とりやめるべきです」と、進言した方もいたそうだが、上皇さまはキッパリと語られたのだ。
「だから僕は行かなければならないのだ。石ぐらい投げられてもいい」
ご学友の進言は杞憂ではなかった。7月17日、上皇さまと美智子さまが、ひめゆりの塔で慰霊の供花をされた後、火炎瓶が投げつけられたのだ。皇室ジャーナリストの故・松崎敏彌さんは、かつてその恐怖の瞬間のことをこう語っていた。
「火炎瓶は、捧げられた花束に当たって、ドンッという大きな爆発音がし、続いて、目の前で4~5メートルの火柱が立ちました。居合わせた人々がパニックになるなか、お二人だけは冷静でした。
ひめゆりの塔の案内をしていた女性を気遣うばかりではなく、『皆さん、おけがはありませんか』と、東宮侍従や警備、そしてわれわれ記者にも、お声をかけてくださいました」
上皇さまと美智子さまは、その後の日程をすべて予定どおり済まされただけではなく、夜には異例の談話を発表された。
《私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともども力を合わせて努力をしていきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません》
「この夜の談話がきっかけとなり、沖縄の人々の皇室への気持ちが大きく変わっていったのです」(久能さん)
身を挺して沖縄の人々の信頼を得たように、“平和を人任せにしない”のが、上皇ご夫妻が貫かれたご姿勢だった。それを象徴するのが、次の美智子さまのお言葉だろう。
「平和は、戦争がないというだけの受け身な状態ではなく、平和の持続のためには、人々の平和の真摯な願いと、平和を生きる強い意志が必要ではないかと思います」(1994年、ご訪米を前に外国記者質問への文書回答より)
そうした強い意志をもって臨まれたのが、ご夫妻のライフワークともいえる“慰霊の旅”だった。
「上皇ご夫妻は国内だけではなくミクロネシア連邦など、海外での慰霊を行いたいという強いご希望をお持ちでした。
大型機の着陸ができるような飛行場がないなどの理由で一時は断念されたのですが、2005年についにサイパン島への慰霊訪問が実現。慰霊だけを目的とした外国ご訪問はこれが初めてでした」(久能さん)
さらに10年後の2015年、パラオのペリリュー島に向かわれる。当時、上皇さまは81歳、美智子さまは80歳。
「ペリリュー島は珊瑚礁でできた小さな島で、周囲の海も常に穏やかなわけではないのです。とても高齢のご夫妻に高速艇に乗っていただくというわけにもいかず、港外に停泊した海上保安庁の巡視船に一泊していただき、そこからヘリコプターでペリリュー島に向かっていただくことになりました」(久能さん)
上皇ご夫妻は、島の南端に日本政府が建立した西太平洋戦没者の碑に、日本から持参した菊の花束を供え、黙禱された。当時、島を訪れていた遺族はこう語っていたという。
「(上皇ご夫妻が)わざわざ慰霊のためにこの島に来てくださったことで、亡くなった方々もさぞ喜んでいることでしょう。遺骨を探し出すことはもう無理でも、魂は一緒に連れて帰ります」
上皇ご夫妻が慰霊を終えられて、ペリリュー島から戻られる途中、スコールの降ったあとの青空には、見事な美しい二重の虹がかかった――。