天皇ご一家は疎開船「対馬丸」犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」で供花し、拝礼された(写真:JMPA・2025年6月5日) 画像を見る

皇居・宮殿の「連翠」に、天皇皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻、愛子さまが並ばれている。6月10日、優れた業績をおさめた研究者に贈られる日本学士院賞の受賞者らを招き、宮中茶会を催された。

 

皇室担当記者は、

 

「この賞を受賞した方々を招く茶会は、コロナ禍での中断を経て、6年ぶりの開催となりました。愛子さまは初めてのご出席でしたが、緊張されることなく、同じテーブルに座った研究者に笑顔で話しかけられていました」

 

ただ愛子さまは、深い悲しみをお心のうちに押し込めて、宮中行事に臨まれていたのではないかと、宮内庁関係者は明かす。

 

「沖縄県を訪問されていた天皇ご一家が、6月4日に国立沖縄戦没者墓苑で、ご供花とご拝礼の後、戦没者の遺族たちと懇談されています。その中の一人である新垣生雄さんが、その翌5日に急性循環不全のため、85歳で亡くなられていたことが、8日になって報じられたのです。

 

お会いした翌日に亡くなられていただけに、両陛下や愛子さまも、非常に心を痛められているとお見受けしています。ご一家は新垣さんのご不幸を受けて、侍従を通じた形で、ご遺族にお見舞いの言葉を送られたのでしょう」

 

天皇ご一家とのご懇談の際、

 

「(戦争で家族を失った)悲しみは消えません。日本をはじめ全世界が平和であることへのお力添えをお願いします」

 

などと語った新垣さん。そして懇談後、愛子さまから、

 

「これからもお元気で頑張ってください」

 

と声をかけられたことをメディアに語りながら、感激した様子だったという。新垣さんは、沖縄本島中部の読谷村で農業を営み、読谷村遺族会の会長も務めてきた。

 

地元紙記者はこう語る。

 

「亡くなった当日も、新垣さんはいつものように畑仕事に出かけていたそうです。新垣さんは3年前には遺族の戦争体験などを集めて記念誌を発刊したり、平和の尊さを語り継ぐ活動に携わってきた方として知られています」

 

読谷村一帯には、1945年4月1日、米軍を中心とする連合国軍の地上部隊が上陸。直前には200隻近い軍艦からの艦砲射撃、米軍機の容赦のない空爆にさらされた。さらにガマ(自然の洞穴)に逃げ込んだ多数の住民が集団自決に追い込まれたという、悲しい歴史がある。

 

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