(写真・金城実倫/琉球新報社)
テレビや街中で見掛けるちょんまげに和服姿のまげひらさん(本名・前平雄一朗さん)(28)=沖縄県那覇市。肩書には「沖縄ナンバーワンちょんまげ系アーティスト」とある。富士葬祭(那覇市)の社員であり、多様な映像制作を手掛け、イベントの司会をこなし、歌も歌う。道行く人に強いインパクトを与える彼の願いは「100万の人に覚えてもらうこと」。その理由は「誰かの明日を1ミリ良くしたい」から。人を笑顔にしたい。ちょっとしたハッピーを感じてほしい。まげひらさんのさまざまな表現活動の源を聞いた。
―自身の仕事を一言で言うと。
「端的に言うと、ちょんまげをやって、タレント活動をさせてもらいつつ、テレビCMの制作を手掛け、富士葬祭の社員であり、広告媒体として歩き回るのが仕事。やっていることは『表現すること』で、ちょんまげは『日本人として日本人をもっと楽しもう』という理由でやっている」
―ちょんまげ以外の姿が想像できないが、どんな子どもだったのか。
「小・中学の時は、どちらかと言うと登校拒否児。アイデンティティーの深い所で『僕は、僕個人が存在しているんじゃなくて、不特定多数の人間の記憶の断片が僕をつくっている』と思い、この人たちが僕の存在を忘れると僕は死ぬ、という考え方に小3で着地していた。極端な子だったと思う。みんなといる時は明るいけど、スポーツマンや部活のリーダー系の子とは違うジャンル。そんな時、背中を押したのがスーパーヒーローと音楽だった」
―スーパーヒーローと音楽がどう影響したのか。
「ヒーローは『仮面ライダーZO』。ライダーに助けてもらった独りぼっちの少年が心を開いていくという映画に自分を重ねた。僕にも引き揚げてくれる誰かがいつか現れると。音楽は『救われたなぁ』と思う曲。中学の時に聴いたDragon Ashの『静かなる日々の階段を』に『夢へのピンチランナー』という言葉がある。当たり前だけど、僕のピンチランナーはいない。それを同じように考え、表現した人がいると思ったとき、僕は多分1ミリ救われた。そして時を経て、まげを結うと決めた自分がいる」
―なぜ、ちょんまげになったのか。
「ちょんまげは高校の時にやりたいとは言っていた。アフロや金髪にしたいと言うのと同じような感覚で。ただ、僕は映像や広告が作りたいのではなく、表現を通して『誰か』の『明日』や『次』を1ミリ良くしたい。その思いが明確に言語になった1月にちょんまげにした。仮面ライダーも制作側にとっては理想のヒーロー像を作っただけだが、それが幼少期の誰かの心に刺さって、僕みたいにヒーローに憧れるアラサーがいる。そんなふうに僕もどこの誰とも知らない人が1ミリ良くなることをしたい。ちょんまげはその表現の1チャンネルだ」
「ちょんまげにして、外国人の観光客や以前は通り過ぎていた人と話ができるようになった。観光客にとっては『チョンマゲ』や『サムライ』がいるだけでエンターテインメントになる。高校生にSNSにアップされることもある。楽しい」
「ちょんまげも、歌うことも、映像や何かを作ることも全て自己表現の方法。表現することで、誰かの記憶の中に笑いとセットで一生あり続けたいという、強い願望から来てる気がする。誰かが笑ってくれるって本当に幸せなことだから」
(文・座波幸代)
【プロフィール】
まえひら・ゆういちろう 1987年生まれ。那覇市出身。インターナショナルデザインアカデミー(IDA)卒。那覇の「栄町」で、祖母の代から続く八百屋を営む家の長男として生まれ育つ。家族そろってカラオケ好き。中3から演劇も経験。22歳の時に富士葬祭に入社。企業のCM制作などを手掛ける。7月からウェブマガジン琉球新報Styleでレギュラー企画「木曜のまげひらNEWSでGO!!」を制作・出演中。まげひらさんのホームページは、http://www.cyonmagesan-okinawa.com/
《編集後記》
まげひらさんを最初に見つけたのはFacebook。知人のシェアを見てそのインパクトに驚いた。会う前はただ目立ちたい人なのかしらと少々不安だったが、とても丁寧な受け答えで洞察力が鋭く、すごく真面目な人だった。彼が着るのは、30年前、祖父が両親の結婚祝いに贈ったもの。巡り巡って袖を通すことになった。「僕はじいちゃんの初孫で、着るとりんとした気持ちになる。じいちゃんの膝に座ってテレビを見てたり、宇宙図鑑を買ってもらったりした記憶の断片がぽんとよみがえる」という言葉に、何だかじわっと涙がこみ上げた。記憶の中の幸せな時間やワクワク感や笑顔。それを誰かと共有していることが生きる支えになる。「いつか僕を思い出しながらクスッと思い出し笑いしてほしい」と言うまげひらさん。おかげさまで、みんなゲラゲラ笑ってハッピーですよ。(座波)