母の遺影を対馬丸記念館に展示することを決めた金城園子さん(左)と娘の仲本江利子さん=19日、沖縄市
戦時中、沖縄から本土に疎開する児童や一般疎開者が乗った「対馬丸」が鹿児島県・トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖で米潜水艦の魚雷に撃沈されて、22日で73年になる。沖縄市の金城園子さん(85)は、一般疎開で乗船し亡くなった母・島袋末(すえ)さん=名護市出身=の写真を那覇市若狭の対馬丸記念館に提供する。母の死で孤児となった金城さんは「優しい母で温かい家族だった。戦争がなかったらと今も思う」と悔しそうに語り、「若い人は平和な国をつくってほしい」と次の世代に願いを託した。
対馬丸には、末さん(当時49歳)と姉の豊子さん(当時16歳)、弟の平信さん(当時10歳)、妹の京子さん(当時7歳)が乗船し、4人全員が犠牲になった。
当時12歳だった金城さんと姉の安江さん(当時14歳)は10日後に出る別の疎開船で九州に渡る予定だった。末さんは金城さんたちに「あんたたちは別の船でおいでね」と言い、旅立った。薄暗い早朝にトラックの荷台から手を振る末さん。金城さんの記憶に残る最期の母の姿となった。
数日後、金城さんが住んでいた名護市仲尾次の集落に「対馬丸が遭難した」といううわさが流れた。「これからどうすればいいのか」。悲しみと絶望が募り、一人枕元で着物がぬれるまで泣き晴らした。
戦後も詳細な情報はなく、平信さんの遺骨以外は帰ってこなかった。戦前に事故で父を亡くした金城さんは安江さんと2人孤児となり、親戚に引き取られた。両親のいない寂しさとみじめさに「一緒に対馬丸に乗っていたらよかった」と思うこともあった。
家族の写真は焼失し、戦後安江さんが友人づてにもらった末さんの写真だけ。母親の写真は、7年前に他界した安江さんが、亡くなる数年前に金城さんに託した。
対馬丸記念館からの呼び掛けに提供をためらっていたが、娘の仲本江利子さん(50)が背中を押した。「写真はおばあちゃんが生きた証し。みんなに見てもらい、亡くなった理由を知ってもらうことで次の世代につながる」(仲本さん)。年齢を重ね「来年は慰霊祭に行けないかもしれない」との思いもあり金城さんは今年、写真提供を決めた。
22日の小桜の塔での慰霊祭には仲本さんと一緒に参列する予定だ。「母やきょうだいが待っていますから」。金城さんは写真を手に目を細めた。
対馬丸慰霊祭は午前11時から、那覇市の旭が丘公園内小桜の塔で開かれる。遭難した人たちが漂着し、3月に慰霊碑が建てられた鹿児島県奄美大島宇検村の元田信有村長が初めてあいさつする。(田吹遥子)