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沖縄国際大学に墜落したCH53=2004年8月

 

沖縄県宜野湾市野嵩(のだけ)の緑ヶ丘保育園に米軍ヘリの部品が落ちていた事故。米軍は部品がCH53のものであると認める一方、「普天間基地の航空機から飛行中に落下したものではない」としている。沖縄県は「うやむやでは県民も納得できないし、不安も払しょくできない」と米軍に対しさらなる事実解明を求めている。

 

米軍ヘリからの落下物かそうでないのか―。現段階で真相は分からないが、子どもたちが通う保育園の頭上をヘリが飛んでいるという日常と、これまで沖縄では墜落、落下など米軍機による事故が多発してきたことは事実だ。

 

私の実家と緑ヶ丘保育園は直線距離で約50メートルしか離れていない。徒歩2分。一番近い保育園だ。私には5歳の娘がいる。職場近くの保育園に入れるため那覇市に引っ越したが、そのまま実家で暮らしていれば、娘が緑ヶ丘保育園に通っていた可能性は高い。事故の一報を聞いたとき、涙があふれ、体が震えた。事故後の週末、保育園を訪ねた。

 

●楽しく過ごすはずの保育園が…

 

事故から3日たった日曜午後。緑ヶ丘保育園には次々と保護者がやってきた。今回の事故について宜野湾市や沖縄県、防衛省などに嘆願書を出すことについて話しあうためだ。在園児の保護者だけでなく、卒園児の保護者、地域の人など約50人が集まった。「楽しく過ごすはずの保育園が命の危険と隣り合わせだった。基地がある限り、どこでも誰にでも起こりうること。子どもたちを守るために何ができるでしょうか」。最初にあいさつした父母会長(48)は語気を強めた。

 

●「基地があるから危ないとは分かっていたけど…」

 

保護者たちが事故を知ったのは、保育園からのメール、父母会LINEだった。

 

Aさん(45)はメールを見てショックで震えた。子どもたちが全員無事であることはそのメールに記されていたが、夕方お迎えに行き、娘の顔を見た瞬間、ほっとして涙が出た。「今回無事だったからいいさ〜じゃない。何か動き出さないと」

 

Aさん自身は基地に隣接する普天間第二小学校出身だ。

 

小学生の頃、基地内にヘリが墜落したことを覚えている。「普天間の危険性」は身近に感じていたはずだが、毎日爆音に接するうちに「慣れてしまっていた」という。

 

これまで抗議活動や何らかの運動に関わったことはない。「基地反対を強く思ったこともない。でも子どものために声を上げないと」。父母会の役員たちに声をかけ、何らかのアクションを起こすことを提案した。

 

「子どもを安心して育てるという『当たり前』ができていない環境なんです。沖縄の子どもたちの置かれた状況を全国の人に知ってほしい」

 

●親子二代で…変わらない「現実」

 

2004年8月には宜野湾市にある沖縄国際大学に米軍の大型ヘリが墜落している。

 

2歳の娘が通うBさん(31)は沖国大の卒業生だ。事故当時は高校3年生で、沖国大への願書を書いているちょうどその時だった。事故を知り、志望校を変えようと思ったが、そのまま沖国大を受験した。入試の面接でも事故のことを聞かれた。

 

娘は今春から緑ヶ丘保育園に通っている。「アットホームな雰囲気、外で思いっきり遊ばせてくれるところ」が気に入っている。しかし、事故が起きた。自身の母校、子どもの保育園が米軍がらみの事故の現場となった。

 

「世代を越えても何も変わっていない。危険と隣り合わせという現実を突きつけられた」

 

●「遺憾」で済ませていいの?

 

「これまで犠牲者が出ても米軍や政府は『遺憾の意』を述べるだけ。『再発防止に努める』と言うだけ。何も変わってない」と指摘したのはCさん(32)。「今回はけが人もいないし、そんな言葉さえなく、何事もなかったかのようにされてしまうのではないか」と懸念している。

 

実際、今回の事故は米軍と園側の言い分に違いがあり、真相はうやむやになってしまう可能性もある。事件、事故が起きても米軍には日本の捜査権が及ばない。米軍関係の事件、事故の真相究明は米軍の裁量にゆだねられているのが現状だ。

 

Cさんは願う。「国のトップの人たちには『自分の子どもが通う保育園だったら』『自分の孫が通う保育園だったら』という想像力を働かせてほしい」

 

●SNSで飛び交う心ない言葉

 

事故直後からSNS上では「危ないならヘリが飛ばない場所に引っ越せばいい」「基地ができた後に保育園ができたんでしょ」という言葉が飛び交っていた。米軍機の墜落などの事故が起きると必ず出てくる「危険への接近論」だ。

 

ここで、緑ヶ丘保育園について説明したい。

緑ヶ丘保育園は1964年設立。普天間バプテスト教会が運営する認可外保育園で、1歳児から5歳児クラスまで60人の園児が通っている。

 

毎年運動会を開催するほどの広い園庭には、倒木を利用したベンチや、手作りのブランコ、ウサギ小屋もある。晴れた日の午前中には木陰のベンチに子どもたちが腰掛けて、歌を歌ったり、保育士が絵本の読み聞かせをしたりしている。

 

普天間飛行場から300メートルの場所にあり、滑走路の直線上にある。保育園の向かいには野嵩一区公民館(=自治会事務所)があり、保育園の隣の広場では毎年夏、区の祭り「ちなひちもうい」が開かれ、多くの区民が訪れる。

 

沖縄戦で亡くなった野嵩の人たちの名前を刻んだ慰霊塔もあり、毎年6月には区の慰霊祭が執り行われる。

つまり、地域活動の中心地にある保育園だ。

 

●米統治のひずみは「保育」にも

 

設立当時から働く保育士(78)は開園当時のことをこう振り返る。

 

「その頃、この辺では小さな子どもたちがあちこちたむろしていた。まちやぐぁー(=商店)の前に座っていたりね。それでは危ない、子育ての拠点が必要だという話になったんです。私は保育士資格を持っていたので、もう1人の保育士と2人で始めたんです。最初は2歳から5歳まで11人の園児でスタートしました」

 

緑ヶ丘保育園のような設立経緯は沖縄の保育園の典型的な例だ。

 

1947年の児童福祉法の制定で認可保育所が整備された本土に対し、沖縄は米統治の影響で適用が6年遅れ、整備も立ち遅れた。見るに見かねた関係者が、働く親にかわって地域の子どもたちを預かる託児所が各地にできた。

 

その後も全国一高い出生率の反面、認可園の整備が追いつかない状況を埋めるように認可外ができた。県内には現在、認可外保育園が343園あり、約1万7千人が通っている。

 

●宜野湾市の4分の1は普天間基地

 

SNS上には「ヘリが飛ばない場所に住めばいい」という書き込みもあった。次の図を見てほしい。

 

宜野湾市の上空でヘリが飛ばない場所なんてほとんどない。9万8千人の市民が住む宜野湾市は市のほぼ中心に普天間飛行場があり、市面積の4分の1を占める。基地周辺には学校、市役所など公共施設が120カ所ある。

 

ヘリやオスプレイなど米軍機は宜野湾市の上空だけを飛んでいるのではない。狭い沖縄。米軍機が飛ばない場所の方が少ない。

 

●繰り返されてきた「落下」

 

プラスチック製の筒が落ちた真下の部屋にいた職員(39)は「ヘリの音がした直後に『ドン』という音がした。すぐに『ヘリからだ』と思った」と振り返る。なぜ沖縄県民が「落下物=米軍のもの」と考えるのか―。それは繰り返されてきた「落下物」と「落下物の恐怖」という沖縄の現状と歴史が関係する。

 

沖縄の日本復帰から今年11月末に発生した米軍機からの落下物は67件。11月30日にも最新鋭ステルス戦闘機F35Aが飛行訓練中に約450グラムのアクセスパネルを海上に落下させたばかりだ。

 

1965年には読谷村の旧読谷飛行場で行われていた訓練で投下された重さ2トンのトレーラーが落下。小学校5年生の女児が下敷きになって死亡した。

 

●名護に移せばいい?

 

「普天間の危険性除去」のため、政府は名護市辺野古へ新たな基地を造り、普天間基地を移設しようとしている。緑ヶ丘保育園のお母さんたちに「普天間の危険性をなくすために、辺野古に移せばいいですか」と聞いてみた。「辺野古に移ってほしいわけじゃない。ただ普通に暮らしたい」、「名護に持っていっても名護の子どもたちが危険にさらされるだけ。狭い沖縄から基地を撤去してほしい」などの答えが返ってきた。

 

声を上げ始めた保護者たちは、これまで基地の近くに住みながらも声を上げてこなかった人がほとんどだ。彼女たちを突き動かすものは「何の心配もなく遊ばせたい」「子どもを安全な環境で育てたい」という子を持つ親なら誰でも思う、いたって当たり前の願いだ。

 

〜 取材後記 〜

 

物心ついたころから普天間飛行場はあり、ヘリは頭上を飛んでいた。フェンスのある風景、ヘリの爆音は日常の一コマに過ぎない。市内の大学にヘリが墜落して13年がたったが、相変わらずヘリは飛んでいるし、さらに危険なオスプレイも飛ぶようになった。「危ないとは思っていたけど、何を言っても変わらないのかな」。保護者たちが口にした諦めは、宜野湾市で生まれ育った私も少なからず感じてきた。

 

もう一つは慣れだ。ヘリのおなかが見えるほどの低空飛行も、耳をつんざくような爆音も、最初は驚いたり、怖がったりしても住んでいるうちに慣れてしまう。いや、慣れないと生活できない。

 

基地の街に住む人たちにも日々の暮らしがある。仕事、育児、人間関係。抱える悩みはさまざまだが、それは本土の人たちとさほど変わらないだろう。ただ一つ異なるのはそこに基地に派生する問題がつきまとうことだ。考え始めると袋小路に陥ってしまう。保護者の中には「米軍関係者の友人もいる。今回のことと別問題ではあるけど、考えだすと複雑。もうこんな複雑な思いはしたくない」と吐露する人もいた。

 

宜野湾で育った人間として、子育て中の母として、記者として、全国のみなさんに基地と共存することを強いられている私たちの日常を知ってほしい。「自分の子どもが通う保育園で、同じような事故が起きたら」と想像してもらいたい―との思いで今回の記事をまとめました。


〜 この記事を書いた人 〜
玉城江梨子(たまき・えりこ) 琉球新報Style編集部。新聞記者として約15年沖縄各地を取材。沖縄の本当の良さを全国の人に届けたいと思っています。