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ビジネスセンター通りとして、戦後の沖縄で有数の繁華街だった現在の沖縄市センター中央通り(通称・中央パークアベニュー)。1973年のドルショックにより閉店が相次ぎ、家族が集える場にしようと84年にパークアベニューが誕生した。

 

今でも多国籍の人たちが店を営み、歩く街にはかつての面影も残る。昨今のせんべろブームで若者の姿も戻ってきた。通りの古今をほろほろ(ぶらぶら)した。

 

夜の活気の発生源

 

夕暮れ時、にぎわいを見せ始めたのは「大衆劇場 足立屋」(1)。おつまみ1品、飲み物3杯で千円の「せんべろセット」が好評だ。店外で飲むお客限定だが、空席待ちは絶えない。若者から中高年まで肩を寄せ合い、店の中も外も活気にあふれている。

 

到着するなり、記者たちもせんべろセットで乾杯。隣の席に座る中村英樹さん(39)らから「いいから飲みなさい」と焼酎「三岳」を頂いた。宜野湾市の職場に務める中村さんらは市上地に住む同僚(53)に連れられ、常連になったそう。

 

那覇市から来た當間淳二さん(44)も「街の雰囲気が面白い。コザで飲むときは人や音楽を楽しんでいる」と笑顔。

 

蔵本亮店長(40)は市胡屋出身だ。「昔は遊ぶなら那覇かコザだった。一時期は寂しい街になっていたけど、にぎわいを取り戻すため一役買えたらうれしい」と話し、せわしい店内に戻った。記者たちも、ほろ酔い気分で店を後にした。

 

通りの歴史と歩む宝石店

 

年季の入った電話ボックスやエイサーキャラクター「エイ坊」のイラストが入った植木鉢などを横目に通りを歩むと、創業60年以上という東宝石店(2) が見えてくる。ショーケースにきらびやかなジュエリーが並んでいる。

 

こちらも世替わりで移り変わる客層に合わせ、さまざまな商品を取りそろえてきた。創業者の東幸信さん(90)の娘の金城恵美子さん(65)は「復帰前は外国人が家族へのプレゼントと言って大きな箱に土産品と一緒に入れて送っていた」と振り返る。

 

復帰後は県外からの観光団体が多くなり、今は地元の皆さんが中心だ。「外国人には大きな宝石、派手な商品が好まれる。日本人、特に年配の方は大きさよりも品質を重視する」と話した。常連客は「ここへ来たら目当ての商品があるはず」と言って来店するという。アベニューの歴史とともにある店だ。

 

インドの魅力 満載

 

両サイドにヤシの木が並ぶ通りを歩くと、独特のお香のにおいに包まれたお店があった。「インド屋 ビクターファッションズ」(3)ののれんをくぐると、店内には幾何学模様の服やクッション、ゾウやネコなどが描かれたカラフルな財布や小物入れなどが並ぶ。

 

インド西部出身のヴィシュヌ・シトゥラーニさん(70)が「いらっしゃい」と元気な声で迎えてくれた。常連客から「ビクターさん」の愛称で親しまれている。

 

沖縄が日本に復帰した1972年に移住した。仕立屋を営み、85年にインド屋を創業。今でこそチェーン店も珍しくないエスニック雑貨店の草分けだ。「昔は中高生のお客さんもたくさん来た。店員が3人いても足りず、夜遅くまで店を開けていた。特に外国人は景気がよくてドルでたくさん払って『おつりはいらない』と言う人もいたよ」と振り返る。

 

年に1度はインドに里帰りし、さまざまな商品を仕入れる。店では雑貨だけでなくチャイやラッシーなどの飲み物も注文できる。ビクターさん特製のカレーは週末(土曜、日曜)限定だが「売り切れてなければ、週明けでも食べられるよ」とアバウトだ。

 

「沖縄の人はみんなとても親切。お店を始めた時もいろんな人に助けられた」と話す。現在は常連客が多く、本部町や糸満市からも定期的に訪れる。「通りには人もお店も少なくなっちゃったけど、この町はすごくいい。無料駐車場があったらもっと人が来るはずだけどね」と語った。

 

夫婦で営むタイ麺屋

 

昼時に立ち寄ったのは、タイ麺屋「ソムチャイ」(4)。フィリピン出身で幼少期をタイで過ごしたリチャード・マパさんと妻の寿実香(すみか)さんが営む。

 

市のタウンマネジメント協議会が実施した「ドリームショップグランプリ」への応募を機に、2006年に創業。厨房(ちゅうぼう)で鍋を振るリチャードさんと手際よく作業する寿実香さんの連携プレーは見ものだ。

 

注文したタレ付き混ぜ麺「クイッティアオ ハン」はタイではポピュラーな屋台飯で、サラダや焼き料理などで重宝されるドレッシングを麺に絡めて食べる。ナンプラーとライムの爽やかな風味とナッツや豚肉の歯ごたえが楽しい一品だ。

 

開店当初、1組の米国人家族が訪れた。タイ料理好きのお客が同僚や知り合いと共に来店し、口コミが広がっていった。今では6割が外国人客で、昼食時はほぼ満席の盛況ぶり。地元客も次第に増えていることに、リチャードさんは「始めは物珍しく来店する日本人客が多かった。時間はかかったが、少しずつ知られてうれしい」とほほ笑んだ。

 

かつては二車線だった

 

戦後、“基地の街”としてネオンを輝かせていた通り(当時はビジネスセンター通り)が二車線だったことを知らない人も増えてきたのではないか。

 

かつての風景を探しに、ゲート通り沿いにある市戦後文化資料展示館「ヒストリート」を訪ねた。館内には、国道側に設置されていた当時のアーケードが飾られている。二車線の両脇にはヤシが植えられ「ヤシの木通り」とも呼ばれた。センター通りについて「当時はゲート通りに比べ少し怖い印象だったようだ」と話すのは市史編集担当の伊敷勝美主査。1970年代のセンター通りを再現した模型もあり「現在の国道側に宝石や時計を売るお店が多く、奥にバーやキャバレーが並んでいた」と話す。

 

84年にセンター中央通り(通称・中央パークアベニュー)がオープンし、現在の一方通行となった。パークアベニューは“夜の街”のイメージや基地経済からの脱却を図り、家族が集う「買い物公園」という構想があった。市建設部都市計画担当の玉城良太技師は「整備後は買い物客でにぎわっていたが、郊外の大型商業施設などの影響で94年頃から歩行者が減少した」と説明する。

 

通りの活性化を考え、2016年に相互通行に戻す計画が決定した。早ければ21年度には工事が完了する予定で、現在の街並みが見られるのもあと少し。戦後の歩みを感じに、通りを歩いてみてはどうか。

 

(2018年12月2日 琉球新報掲載)

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