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日本ハムファイターズからメジャーリーグの地元球団「ロサンゼルス・エンゼルス」にやって来た大谷翔平(24)。投げては162キロの剛速球で三振の山を築き、打っては3試合連続の特大ホームランをかっ飛ばした。伝説のベーブ・ルースから100年ぶりの、夢のTwo-Way Player(二刀流)の誕生に、全米が熱狂した。

 

その活躍ぶりを伝えるテレビ画面に映る、新聞の写真に写る大谷選手の、すぐ近くをよ〜く探してみてほしい。きっと、エンゼルスの赤いポロシャツに、セミロングの明るいブラウンヘアをなびかせた、アジア系の女性を見つけることができるはずだ。

 

その人こそ、グレース・マクナミさん(45)。エンゼルスの広報スタッフで日系2世だ。メジャーの広報というと、大柄な女性を連想しがちだが、むしろ小柄できゃしゃである。

 

「大谷さんとは2月のアリゾナキャンプで初めてお会いしました。若いのにしっかりしていて好青年。その場の雰囲気をすご〜く読んでいるし、いろいろ物事を深〜く考えながら話す方だなって。それに、謙虚だと思います」

 

ちょっぴり誇らしげにそういうグレースさんだが、今回の取材のメールに《メディア担当として黒子の役割に徹しているのでとても恐縮です》と返信してくるほど、ご自身も実に謙虚だ。取材中のこんな言葉にも“黒子”に徹しようという意思が強く感じられる。

 

「私の仕事は、大谷さんの取材に来られた日本人プレスの方々をサポートすること。調整役です」

 

黒子の調整役——大谷選手とともに夢を見るための“極意”は、なんと、エンゼルスのライバル・ドジャースで培ったものだった。

 

’95年、熱狂の渦中にグレースさんはいた。“生まれたときからドジャースファン”を公言していた彼女を、知人が広報部の研修生に推してくれたのがきっかけだった。

 

「大学の卒業は6月でしたが、4月からドジャースで広報研修生として働きました。初出張は野茂さんの初登板、5月のサンフランシスコでのジャイアンツ戦でした」

 

その年、日本のプロ野球から追われるように海を渡り、ロサンゼルス・ドジャースと年俸980万円で契約を結んだ野茂英雄(当時26)。初登板からトルネード投法で快投を続け、「NOMOマニア」という言葉が生まれるほど米国社会に衝撃を与えた。日本からも報道陣が大挙して訪れたことで、日本語を使えるスタッフが求められたのだ。

 

沖縄が米国から返還された’72年、海外赴任先のロサンゼルスで暮らしていた森野家に長男と6歳違いの女の子が生まれ、グレース・由美子と名付けられた。父・正明さんは日商岩井航空機部に勤務し、母・幸子さんは専業主婦として一家を支えていた。

 

グレースさんが小学3年生のとき、一家はロサンゼルスから名古屋に引っ越した。その後、神奈川に移ったが、父の再駐在によりロサンゼルスに戻るまでの5年間を、日本で過ごした。

 

「LAでも自宅では日本語を使っていたので、ときどき発音がおかしいと言われるくらいで、イジメなんてありませんでした。でも、初めての国で、転校したばかりの学校で、何が何だかわからない状況に放り込まれたときの心細さ、頼りなさをいつも感じていました」

 

それでも14歳で生まれた街に戻ったグレースさん。楽しいハイスクール生活が始まる、はずだった。

 

「日本の中学では英語のリーディングのお手本役をしていました。それがLAに戻ったら、まるっきり英語を忘れていたのです」

 

クラス分け試験で「ヤマ勘で答えた」ら、いちばん上のクラスになった。ますます追い込まれた。お手洗いでは、同級生が当然のようにメークをしていた。日本で感じていた、あの右も左もわからない心細さがよみがえってきた。

 

「見かねた英語の先生が0ピリオド(始業前)に英語の補習をしてくれました。先生は困ったときにはいつも熱心にサポートしてくれて。そういえば日本でも自信なさげな私を励まし、助けてくれた先生がいたのを思い出しました」

 

英語の先生のサポートで“思い出に残る青春”を送ったグレースさん。名門カリフォルニア大学アーバイン校に進み、そして、ドジャースで広報研修生となった。

 

「当時、野茂さんの取材にいらしたメディアの方は、アメリカでの仕事は初めてという人が多かったのです。戸惑われている姿が、日本に行った小学生のころの、LAに戻ったハイスクール時代の自分と重なって。日本でもアメリカでも、私をサポートして助けてくれた人がいたので、今度は私ができることをしようと。ある意味、ひとつの恩返しなんですかね」

 

2年目からフルタイム勤務となったグレースさん。ところが野茂選手が4年目のシーズン途中に移籍。オーナーが前年に代わっていたことも影響したのだろう、グレースさんは’99年のシーズン前にドジャースを退職すると、映画会社に転職する。映画業界に飛び込んだ年の7月、グレースさんはドジャース時代から交際していた5歳年上の弁護士、ダン・マクナミさんと結婚。

 

「すごく陽気な、とてもアメリカ人な人。高校・大学と陸上をやってきて、今も走り続けてます(笑)」

 

映画に4年間精力を傾けた彼女は映画会社を辞め、アニメーション会社に転職する。そして数年後、フリーのマーケティングコンサルタントとして独立。その間、’02年に長女の彩・グレースさん、2年後には次女のキラ・碧さんを授かる。

 

「家では日本語を使うよう言い聞かせてきたのですが……使わないと言葉は難しいですね」

 

娘たちが成長するにつれて、グレースさんにある思いが芽生えた。

 

「母は英語というハンディがあっても、工作の時間に折り紙の先生役を買って出たり、私の学校生活に積極的に関わってくれて。だから私も母のようになりたいと」

 

PTAの幹事やルームママ(クラスの世話役)は当然、引き受けた。キャラ弁を作って持たせたときにはママ友がザワついた。

 

「キティちゃんおにぎりに、ウサギのりんごに。頼まれて、知人の分まで作ったこともあります(笑)」

 

最近では、長女のバスケットボール部の後援会会長になった。会長職は、チームの浮沈を握る重要なポストで、保護者や校内に人望がないと選ばれないという。

 

「ハイスクールで一貫したものは部活動なので、ちゃんと思い出に残る青春を送ってもらいたくて」

 

そのために、遠征先のビーチ特訓では正規のトレーナーを雇い、合宿では部員の結束を高めるためにカラオケ大会をお膳立てした。

 

「エンゼルスでも選手のつながりがすごいケミストリー(化学変化)を起こすのを見ていましたから」

 

自分でも思いもよらない場所にたどり着いた昨年、’17年をグレースさんは、「人生って本当に不思議」とひと言で表現した。

 

まずは、コロラド州デンバーで会社の社長をしていた夫が転身し、自宅から通勤するようになった。さらに、子どもたちがそれぞれ“自分の世界”を持ち、親離れも始まった。だからこそ、グレースさんの心を波立たせるものがあった。そのころから急に野球を観戦する機会が増えていたのだ。夫の仕事仲間や、昔からの知人を地元のスタジアムに案内したり、遠くはボストンまで足を延ばすこともあった。そのなかで、野球への思いがどうしようもなく募った。

 

「あ〜、野球って、本当にいいなあって。真摯に打ち込んでいる人を熱心に応援する人がいて……」

 

まさにそんなとき——。12月8日、大谷選手のエンゼルス入団が電撃発表された。

 

「野茂さんはとても我慢強く、マイペースな人でした。二刀流に挑戦する大谷さんはあのときの野茂さんにいている!」

 

ニュースを聞いたグレースさんは居ても立ってもいられなくなった。

 

「お手伝いできることがあるならと、私からチームに連絡しました」

 

年末ぎりぎりのオファー。年が明けると、ドジャース時代の仲間からも情報を集めた。彼らの多くは他球団に籍を置いていたが、相談に乗ってくれたうえ、「オオタニのために君ができることはある」と背中まで押してくれた。仲間のエールを受け、2月初旬にエンゼルスの最終面談に臨んだ。

 

「最後に担当者が『ご家族と相談してもらいたい』と。そして、エンゼルスの帽子を4つくれたんです。家族を大切にする球団だなって」

 

急いで自宅に戻ると、夫と2人の娘を前に「エンゼルスで大谷さんと働きたい」と伝えた。すると……。

 

「夫は野球の現場に戻りたいという、私の思いをわかってくれていて。長女も『ママ、私、頑張るから』と。次女も『お姉ちゃんとパパのお手伝いする』って、即答してくれたんですよ」

 

子育てに手を抜かず全力投球してきた母に起こった“マクナミ家のケミストリー”だった。“元祖パイオニア”野茂英雄と濃密な時間を過ごしたドジャース広報時代から20年。グレースさんは再び、スタジアムに戻ってきた。

 

「面談1週間後にはアリゾナのキャンプ地にいました。100人以上のプレスの方が、大谷さんの一挙手一投足に注目していました。久しぶりに現場復帰した6週間、娘たちは夫をしっかり手伝ってくれていたそうです。そして3人でアリゾナまで来てくれたんです」

 

いよいよ先発投手復帰も間近といわれ、二刀流完全復活に向けてまい進している大谷選手。そのケガからの復活に、チームの広報として尽力したグレースさん。

 

「大谷さんの活躍は想像以上。でも、彼の人柄を知るほど、どんなチャレンジにも前向きに頑張っていくのでは、と思っています」

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