マラソン瀬古利彦語る 34歳で旅立った愛息がくれた“金メダル”
画像を見る 86年9月9日に長男・昴くん誕生、6日後に会見でお披露目した

 

昴さんが社会人2年目のころ、11年3月に東日本大震災と福島第一原発事故が起きる。事故の爆発映像を目にした昴さんは、そこで大きな衝撃を受け、会社を1年余で辞め、ピースボート世界一周の船旅に活路を求めた。

 

しかしその洋上で病魔は忍び寄っていた。背中に湿疹ができて治らなくなり、体調不良にウスウス気づき始めていた。その後、ピースボートの職員となったが、咳は止まらず胸の痛みも出てきた。痛みは全身に及ぶ。呼吸が辛くて不眠になり、歩くのさえキツくなり、とうとう13年6月、東海大学医学部付属病院に入院。

 

そこで告げられた検査の結果は、「ホジキンリンパ腫」という耳慣れない病名だった。

 

昴さんの主治医だった東海大学血液腫瘍内科の鬼塚真仁准教授が、病気の特徴と症状を説明する。

 

「ホジキンリンパ腫とは、比較的若い方に発症する傾向がある悪性リンパ腫です。標準的な治療は、4種の抗がん剤を2週に1度投与するABVD療法です。近年は新薬が出て副作用も軽減されつつありますが、昴さんのように難治性、つまり完治が難しくなるケースもあるんです」

 

治療のさなか、ドライアイが強烈になり、左目には乾燥防止のアイパッチを装着。鼻には酸素供給のためにチューブが。そして移動は車いすに。さらには排尿障害が出て、導尿トレーニングをしたこともあった。

 

しかし、こうした闘病の苦しみがありながらも、昴さんは、心の平穏と安らぎを得られていた。

 

《母の作った食事を、家族で囲めること。他愛ない話をしながら、家族と観るテレビ。スマホのゲームを一緒にやったり……僕が病気になったことで、家族が一丸となる場面が増えました》

 

それは、瀬古家にとって、いい意味での“事件”だった。「瀬古利彦の長男」として《父に変なライバル心があり、強く反抗していた。父はいろいろなことを成し遂げてきたけど、僕はまだ何もできていない》と吐露していた昴さんに、変化の兆しがあったのだ――。

 

妻の美恵さんは、この取材を受けて、ふと思ったのだと明かす。

 

「それは『私も、生きて、生きて、生き抜くよ!』ということです。『そうしないと、次のステップに進めないよ、お母さん』と、そんなふうにいま、昴が教えてくれているのかなって……」

 

昴さんは、同じ病と闘う人の先頭に立ち続け、走り抜いた。そしてこれからも、瀬古さんと美恵さんのなかで昴さんは生き続ける。昴さんを先頭に、瀬古家のマラソンはずっと続いていくのだ。

 

その先には“心の金メダル”が待っている──。

 

(取材・文:鈴木利宗)

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