■料理のおすそ分け。急病時はトラックでお迎え。隣人は新庄の父母に感謝を忘れない
「ツヨシ兄ちゃんは、学校から帰ると、すぐにランドセルを玄関に放って、外で遊んでいました。ふだんからお父さんが厳しく野球を教えていて、お母さんが陰から心配そうに見守っていたり。一方、お姉ちゃんのほうは、家でおとなしく宿題をしていました」
72年1月28日、母の文子さんの実家がある長崎県対馬で生まれ、福岡市で育った新庄剛志。同時期に、父の英敏さんは、造園業「新庄造園」を始めている。
少年時代の新庄について証言するのは、彼が3歳のころから住み始めた同市内にある借家の大家さん母娘。
新庄より3学年下という娘さんは、新庄一家について、
「お母さんもお姉ちゃんも、背のスラッとしたスマートな方。文子さんは口数少なく控えめで、しっかり者の昭和のお母さんタイプ。料理も上手で、よく対馬の魚料理を『食べてください』とおすそ分けしてくれました。
私は小1のころには、お姉ちゃんに手を引かれて登校していましたが、『次の角を曲がるからね』と一生懸命に声をかけてくれたのを覚えています。でも、話をするのはそのときぐらい。
家にお邪魔しても、お姉ちゃんは1階の自室でずっと勉強。ツヨシ兄ちゃんの部屋は2階でしたから、ふだん、2人が一緒にいる姿を見たことがなかったです」
新庄は、幼少期について、
《ボクの家は超貧乏で、だから毎日、給食を思いっきり食べていた。晩飯のおかずは、ゆで卵1個》
などとつづっているが、
「そんな時期もあったかもしれませんが、私が知る限りは、お父さんの仕事関係の職人さんも食卓にいたりでにぎやかで、けっこう豪華な感じでした。ツヨシ兄ちゃんはつまみ食いして、よくお母さんに叱られてましたね(笑)」
新庄一家との交流で、忘れられないことがあるという。
「小学校時代、私が授業中に高熱を出したことがありました。うちは共働きで両親には期待もできずに保健室にいたんですが、なんと、ツヨシ兄ちゃんのお父さんが、親の代わりに迎えに来てくれたんです。そう、造園に使う大きなトラックで!」
今は高齢の大家さんの母親も、感慨深げに語る。
「そのままトラックでこの子を病院にも連れていってくれたんです。隣人というだけで、そこまでやってくれて、今でも感謝しています。他人の私らに対してもそうでしたから、新庄さん一家は、家族同士では、いつも互いに思いやって生活していらっしゃいました」
中学を卒業した新庄は、持ち前の運動神経を発揮して、父のアドバイスに従い、やがて野球の名門となる西日本短大附属高校へ。姉はひと足先に、地元で進学校として知られる高校に通い始めていた。