■プロ野球を辞め、キャスターになった栗山監督。高2の大谷は「ヒョロヒョロした」選手だった
「野球は、たいしてうまくもなかった。一流の選手になれなかったトラウマがある」
と、常々、インタビューなどでも、現役時代について自嘲気味に語ることの多い栗山監督。
東京都小平市出身の独身。生まれは’61年なので、大谷選手とは33歳の年齢差となる。
創価高校、東京学芸大学の野球部を経て、’84年にヤクルトスワローズにドラフト外で入団。俊足を生かした守備でゴールデングラブ賞も取ったが、激しい目まいや耳鳴りなどを伴うメニエール病に苦しめられ、わずか6年で引退してスポーツキャスターに転身した。
一方、’94年生まれの大谷選手は岩手県水沢市(現・奥州市)出身で、スポーツ選手だった両親のもと、小2で地元の少年野球に参加し、中学生で時速140kmを投げ、花巻東高校の野球部で佐々木洋監督(47)の指導を受けたといった10代までの野球遍歴は、大谷伝説の序章として誰もが知るところだ。
栗山監督と大谷選手、2人の出会いは’11年4月。前述のとおり、栗山監督がキャスターとして、東日本大震災後、大谷選手の母校である花巻東高校を訪れた際に、高2の野球部員として言葉を交わしている。すでに天才の片鱗を見せていた大谷選手だが、世間的には今ほど知られていなかった。
そもそも小中学校時代まで、地元の野球関係者によれば「小食で、身長ばかり高いヒョロヒョロとした体格だった」という大谷選手。それを、高校入学直後から、
「いずれ160kmが出るよ」
と声かけし、食事やウエートトレーニングの助言をしたのが、もう一人の恩師といわれる佐々木洋監督。肉体改造だけでなく、同校野球部の先輩でもある「(菊池)雄星さんのようになりたい」と口にしていた大谷選手に、
「『誰かみたいになりたい』という考えでは、その人を上回ることはできない」
と、教え諭したのも同監督だった。
この生徒一人一人の個性を重んじる名将のもとで、着実にアスリートとして経験を積み重ねていた大谷選手を思いがけないけがが襲ったのは、’11年6月。くしくも、栗山監督と出会った2カ月後のこととなる。
骨端線損傷という野球選手として初めての大きなけがに見舞われるが、結果として、このときに痛みの少なかったバッティング練習に比重を置いたことが、のちの二刀流の萌芽ともなる。
佐々木監督も、
《大谷本人もそうだったと思いますが、その時点では『ピッチャー・大谷翔平』の意識しか私にはなかった。もしかしたら、ピッチャーとして三年間、順当にいっていれば『バッター・大谷翔平』があそこまでのものになっていなかったかもしれない》(佐々木亨著『道ひらく、海わたる』扶桑社)
そして’12年7月、高3の大谷選手は夏の岩手県大会で、「球速160Km」を達成。
高校生活をふり返れば、甲子園には2度出場し、エースとして力投を見せていたが、そのマウンドで勝利をつかむことは一度もかなわなかった。
その悔しさを胸に、すでにプロ野球界からも注目される逸材となっていた大谷選手は、卒業後に進むべき道をしかと見定めていた。