10月某日 北イタリア・パドヴァ
日本でも北海道の各地で既に氷点下を記録したりしているようですが、ついこの間まで暑過ぎる、焼け焦げる、と文句を言っていたのがまるでウソのように、ここ北イタリアも雨続きの悪天候が続き、ぐっと気温も下がってまいりました。朝は暖房をつけなければなかなか毛布を剥ぐ勇気が出ないくらいの寒さですが、この急激な温度変化でどうやら大勢の人たちが風邪をひいているようです。
うちの旦那も喉の痛みに高熱、そして関節痛を訴えて3日程寝込み、やっと治りかけてきた今も、彼の部屋から激しい咳音が聞こえてきます。病み込んだ咳音というのは、聞いているだけでも感染するような気持ちにさせられますが、部屋にいるときだけではなく、台所や居間など共有のスペースも咳をしまくりながらうろうろ歩いているので、風邪の菌をばらまかないようにして欲しいと、私は日本から持って来たマスクを彼に差し出しました。
しかし、彼はそれを裏表ひっくり返したりして暫し見つめた後に、「いらない」と私に突き返しました。私はちょっとむっとなって、もう一度マスクを押しつけました。私は旦那が放出しまくっているウィルスが浮遊している空間で生活をしているわけですから、こちらへの感染を慮って欲しいと思うわけです。でも、改めて頼んでみても旦那はマスクの装着を拒み続けます。そんなに心配だったらこの空気を吸い込まないように自分が付ければいいじゃないかと言われ、咳をしたままさっさと部屋に戻って行ってしまいました。
「風邪というのは本来、人に感染するものなのだから、それをマスクなどをして力づくで拒んではいけないんだ」
そういえばかつてポルトガルに住んでいた頃、風邪気味の息子があまりに咳き込んでいるので日本製のマスクを付けて登校させたら、その姿を見た学校中の生徒たちが不穏そうな表情になってどよめき、あげくに先生まで出て来てただちにそのマスクを取るよう息子に指示をしたそうです。そんなもの(マスク)をしていると、まるで何か恐ろしい疫病にでもかかっているように見えるから、というのが理由だったそうですが、確かに欧州では日本のように日常でマスクをして外を歩いている人に出会う事はほとんどありません。
マスク自体がまず日本のようにどこでも売っているわけではありませんし、売っていたとしてもそれは工事現場で使用されるようなガスマスクみたいな仰々しい形状のものしかありません。あんなものこそ付けて外を歩いた日には、周りの人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていくことになると思われますが、感染症に掛かったときくらいは、他の人に感染させない配慮として日本のようにマスクを普通に付ける事が普及してくれればいいのにと思います。
先日、日本からイタリアへ戻るときに乗った飛行機の中でも、私の周りの何人かが激しく咳をしたり鼻をかんだりしていましたが、飛行機のような乾燥しまくった小さな密閉空間では風邪菌も猛威を振るい放題です。しかしそこでも誰ひとりとしてマスクなどしていませんから、飛行機は空飛ぶ風邪菌培養室と化していたはずで、お陰でその中に閉じ込められていた多くの人が風邪ウィルスのキャリアになったことでしょう。
ちなみに旦那は「風邪というのは本来、人に感染するものなのだから、それをマスクなどをして力づくで拒んではいけないんだ」というワケのわからない理屈を並べてもいましたが、私の憶測ではもしかすると多くのイタリア人たちは病気であってもやはり顔の半分を隠してしまうのが嫌なのかもしれません。彼らにとっては鼻汁が垂れていようとくしゃみや咳が噴出しようと、人と接する時は顔をすべて見せるのが常識であり、それで相手に風邪がうつったとしてもそれは仕方の無い自然の摂理、として受け止めているのかもしれません。
私のマスクと冷えピタ姿を見たロシア人女性は、涙を浮かべて大笑した
そういえば、風邪の感染の配慮の足りないと思われるもう一つの彼らの習慣に、鼻を布製のハンカチでかむ、というのがあります。飛行機の中でも鼻をかんでいる人が沢山いたと記しましたが、彼らは鼻汁が出て来ると自分たちのポケットにくしゃっと突っ込んであるハンカチを取り出し、そこに「ふんっ」と鼻の中味を噴出させるのです。こちらにはポケットティッシュというものが普及しておりませんし(折りたたみ式紙ナフキンのようなものは存在し、それで鼻をかむ人も中にはいますが)、あったとしても「紙の無駄遣い」ということで恐らく積極的には使う人はそんなに居ないかもしれません。
そして、自分の周りにもし鼻が出そうな人がいたりすると、彼らの中には自分が既に使用したそのくしゃくしゃのハンカチをポケットから取り出し、隅っこの方を広げて「ほら、ここらへんはきれいだから使う?」と差し出してきたりする人もいます。少なくとも私は何度もこうやって使用済みのハンカチで鼻をかむ事を進められました。彼ら曰く「出そうな鼻を啜るのは良くないし、周りの人に不快感を与える。自分のハンカチがないのなら、ここでかめ」という事だそうです。
お国変われば風邪との付き合い方も変わるわけですが、これだけ長く海外に暮らしていても私はいまだにこのイタリア式の風邪の対処に馴染めておりません。
そんなわけで、案の定家の中に媒介された風邪菌に体を蝕まれた私は、日本から持ってきた風邪薬を飲みながら周囲を慮ってマスクをし、おでこには解熱用の冷えピタを張って現在この原稿を書いています。家の掃除に来たロシア人女性はそんな私を見て目に涙を浮かべながら大笑いをしましたが、怯えられるよりは笑われる方が何百倍もマシかもしれません。
それにしても日本人という人種が他国の人々と比べて、どれだけ周りの人を慮ったり気を使ったりしているのかということが、今回のマスクを通じてしっかりと認識できた次第です。