「ノーベル賞(の受賞)は、女房がいちばん喜んでくれたことでしょう。まあ、彼女の支えがなければ、ノーベル賞をもらうこともなかったでしょうし、この恩はひとときも忘れたことはありません」
そう静かに語りだしたのは、今年のノーベル生理学・医学賞を受賞した北里大学の大村智特別栄誉教授(80)。12月10日、スウェーデン・ストックホルムで行われるノーベル賞授賞式を目前に控え、大村教授が15年前にがんで亡くなった妻・文子さん(享年60)への思いを話してくれた。
「あるとき、なぜ私と結婚したのか聞いたことがありました。文子は『それは救済事業よ』と笑っていましたね。彼女を紹介してくれたのは、都立墨田工業高校で教員をしていたときの同僚。私は教員をしながら、研究者としての生活に身を置こうとしていたころでした。栄養の偏りと疲労からやせ細っていた私を見て『この人を救ってあげなくては』と思ったのでしょう」
その後、高校教員を辞め、山梨大学の助手になった大村教授は、27歳のときに結婚。当時、大学院進学を考えていた5歳年下の文子さんは、実家が新潟県で百貨店を経営していた“お嬢様”。そんな彼女にとって、甲府での新婚生活は困難ばかりだったと、大村教授が振り返る。
「安月給なのに、私は、段ボールいっぱいの本を買い込んだり、高額な実験器具を購入したりしていたため、生活はいつもきゅうきゅう。妻は実家の親のスネをかじって賄っていました。また、甲府の盆地特有の夏の暑さは大変だったようで、ある夏の日に私が帰宅すると、冷蔵庫の扉を開けて、背中をつけるようにして涼んでいたことも。とにかく、どんな状況でも明るく、天真らんまん。そして、強い意志をもっていた。よく苦学生のような生活を耐えてくれたと思います」
夜通しで実験をしているときは夕食を運んだり、データ計算を手伝ったりと、研究に没頭する大村教授をサポートした文子さん。
「結婚してから2年後に、東京の北里研究所に移りましたが、生活はあいかわらず苦しかったですね。妻は、世田谷区の自宅に小学生を集めて学習塾を開いたり、家庭教師をしたりして、生活費を稼いでくれました」
そして、大村教授が照れ笑いを浮かべてこう続ける。
「そういえば、一度、女房に“拉致”されて精神科に連れていかれたことがありました。ちょうど30代半ばで、北里大学で助教授に昇格したころ。それまで一心不乱に研究をしていましたが、行き詰まっていたんですね。めまいがして、何も手に付かない毎日が続いていたんです。精神科の先生からは『仕事のやりすぎだから、パチンコかゴルフをしなさい』と言われ、ゴルフを始めたんです」
医師の助言が、静岡県の川奈ゴルフ場の近くの土壌で微生物を見つけることにつながる。そして、この発見がアフリカなどの熱帯地方で猛威を振るった「河川盲目症」の特効薬「イベルメクチン」開発のきっかけに。文子さんの“拉致”がなければ、今回の受賞もなかったかもしれない−−。
12月10日、大村教授は晴れやかな舞台に立つ。最後に、大村教授はこう語ってくれた。
「えんび服の懐ろにちょうど入る額を買ってきて、文子の写真を入れています。先日の文化勲章の授章式では、記者の方からその写真を見せてほしいと、せがまれましたが『家内が恥ずかしがって出てきません』と言いました。今回はひょっとしたら……(笑)。亡くなって15年たち、ようやく私も冷静に振り返ることができました。ノーベル賞は、文子と一緒に頂きます」