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影絵作家の藤城清治さん(94)といえば、瞳の大きな“こびと”や愛らしい動物たちが登場する影絵でおなじみ。誰もが『暮しの手帖』の連載やカレンダーなどで目にしたことのある国民的アーチストである。画業80年を超える今も、毎年のように展覧会を行い、東日本大震災には自ら被災地にも足を運んで作品を発表するなど、創作の第一線での活動が続いている。

 

放射線の線量計が鳴り続けるなか、防護服に身を固めながらデッサンを続ける藤城さん。鬼気迫る姿は、国民的に親しまれた、メルヘンチックな作風とは遠いように映るだろう。体験しているからこそ、戦争などをモチーフにするのはつらかったというが、年を重ねた今は違う。

 

「どの時代も生きてきたこと自体を素晴らしいと思う。50~80代と経たからこそ戦争や災害もテーマにできる」

 

藤城さんが、サイン会のために広島を訪れたのは80歳の夏。朝目覚めてホテルの窓を開けると、眼前に原爆ドームがあった。

 

「心震える思いがして、すぐにデッサンに出ました。周囲を回るうちに雨が降りだして、消しゴムも使えない状況でしたが、どんどん引き込まれていったんです。それまで、僕の画風では原爆ドームを描いても自分らしさは出せないと思ったし、戦争の遺産を前にしても、かつて海軍を志願した自分自身の体験もあるから、つらさのほうが大きかった。しかし、年齢を重ねていくうちに、美しいものがある一方で、人間の負の歴史や現実の生きざまもありのままに伝えていかねばと思うようになりました」

 

藤城さんが喜寿を迎えるころから、地方へも同行するようになったという娘の亜季さんが語る。

 

「父は、それまで戦争に関する場所に行きたがりませんでした。原爆ドームの前でも、『僕はここを描きたい。でも、現実を描いたら、僕のメルヘンの世界に親しんでくれていたファンやスタッフが嫌がるんじゃないか』。そう言って涙を流すんです。私はとっさに、『絵描きが描きたいものを描かないでどうするの。チチ(お父さん)の自由に描いてください』と言っていました」

 

3日間の予定の広島滞在は、終わってみれば10日間にも延長されていた。こうして’05年、『悲しくも美しい平和への遺産』が完成した。この広島以降、藤城さんに一つの変化が起きた。

 

「それから父は、旅行カバンに必ず2冊のスケッチブックを入れるようになりました」(亜季さん)

 

東日本大震災の後も、藤城さんは、愛用のスケッチブックを手に被災地へ向かった。

 

震災翌年の’12年夏には、東北各地を訪れ、『南三陸町防災対策庁舎』や『陸前高田の奇跡の一本松』といった作品を制作。前者では、美しい構図の中に、庁舎を襲う津波とも炎とも見える造形が描かれている。

 

「市民にマイクで避難を呼びかけながら奪われた職員の尊い命もありました。そんな真実の光景も描かなければならないと思いました。一本松のときは力が入って、気付いたら、上がってきた潮の中に足がつかったまま描いてました」

 

同じ年の冬には、原発事故後の福島県大熊町にも入った。吹雪も舞い始めるなか、防護服を着てのデッサンとなった。このときも同行していた亜季さんは語る。

 

「父は私たちと違って、腰掛けての作業ですから地面に近くて、浴びる放射線も段違いに多かったのです。私たちの線量計が“ピピ”ぐらいのときに、父のは“ピピピピピ……”と途切れなく鳴り続けて、私はその音が怖くて」

 

移動するように説得する亜季さんに、藤城さんは怒鳴った。

 

「バカヤロー。今、僕がこれを描かないでどうするんだ」

 

せめてもと、亜季さんは、長靴だけは何度も履き替えるようにしてもらったという。

 

被災地に通い続けたのと同じく、’16年に発表された特攻隊をモチーフにした『平和の世界へ』があるように、藤城さんは、戦争を後世に語り継ぐことの大事さを訴え続ける。

 

「戦争はいったん始まったら、簡単に終わらせられるものじゃない。その悔いを、友を失った無念を知る僕だからこそできるのは、悲惨な現実とともに、そこに愛や夢を光と影で描くことだと思ったんです」

 

広島、そして東北や熊本でも、戦争や大災害の傷痕が残る地を描いた作品には、色とりどりの折り鶴や鳥が空に向かい飛翔し、藤城さんの分身ともいうべき“こびと”の姿がある。それらは、戦争を体験した藤城さんが、われわれ人間の中に見いだした「希望」であり、「いのち」の象徴なのだ。

 

藤城さんの挑みたいテーマは尽きない。

 

「僕のメルヘン世界の原点でもある神話の世界を広げて描いていきたい」

 

その言葉を裏付けるように、現在、’19年5月のお披露目を目指して、宮崎空港に飾られるステンドグラス作品の大作『神々と光と国の始まり』が制作進行中だ。

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