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「母は、この3月で98歳になります――もうすぐ白寿。ただ、いまは介護施設にいて、私が何かを囁きかけても、私のことを、息子だとわかってくれることはないんです」

 

こう話すのは、落語家の六代・桂文枝さん(75)。’66年に三代目・桂小文枝に入門、「桂三枝」としてデビューし、芸歴は53年目に突入している。ライフワークである「創作落語」は、現在までに290にのぼる作品を手がけてきた。

 

日曜昼の『新婚さんいらっしゃい!』(テレビ朝日系)ではユーモアあふれる司会として知られているが、この番組は「同一司会者によるトーク番組の最長放送」として、ギネス世界記録に認定されている。

 

そんな文枝さんは、’18年10月、初の自伝『風に戦いで』を出版。「母」について公で語るのは、この自伝が初めて。文枝さんがいまだからすべてを話せる、“母への思い”とは--。

 

「旧陸軍にいた父は持病の肺結核を悪化させていて、私が生後11カ月のときに亡くなりました。私を抱えて父の実家を出た母は、羽振りのよかった叔父の屋敷にお世話になることにしました」

 

しかし5歳のとき、そんな生活が一変する。

 

「大阪市内の小さな製材所の3畳一間に、母子2人で暮らすように。母は、叔父の知人だった製材所の社長さんに雇ってもらい、事務作業とまかないの仕事をするようになりました」

 

だが数年後、製材所は材木街を襲った大火事で全焼してしまう。今度は母の兄の家に身を寄せることになった。

 

「おっちゃん(母の兄)の家は本当に粗末で、いわゆるバラックでした。そのころ母は、月曜日から金曜日まで料理旅館に住み込みで働き、土曜日になると帰ってくる生活でした」

 

当時母は30代前半。文枝さんはそのころの母をこう振り返る。

 

「小学生の私と2人で暮らそうと思えば、安アパートを1部屋借りて住むこともできたはずですが、母はそうしなかった。おっちゃんにわが子を預けて、“女の人生”を謳歌したい時期でもあったんでしょう。週末の夜遅くに帰ってくる母は化粧や酒のにおいがして、すごく嫌だった記憶がある。母を遠くに感じたものです。その後、母は再婚するのですが、私は最後まで猛反対しました。彼女からすれば、“母ひとり子ひとり”の人生に疲れたのかもしれませんが、当時の私には納得できませんでしたね」

 

これまで文枝さんが明かしてこなかった母の素顔、そして親子の歴史。いま、そのことを語ろうと思った動機をこう語る。

 

「現代の母親は、どうも生きづらさを抱えているのではないかと映ったんです。共働きでも家計に余裕がない世帯は多いなか、虐待などの痛ましい事件も連日、報道されています。“完璧な親”を目指しすぎて、親子関係が崩壊してしまうケースもあるんやないかと。それに比べれば、母はけっこう自由に生きてきたと思うんです。母のように、『ちょっとええ加減』なくらいが『ちょうどええ加減』の子育てかもしれませんよ、と。それでも、ひとり息子はこんなに立派に育ちましたからね(笑)」

 

母親を介護施設に入居させたときの心境を記者が問うと、文枝さんはすこし黙って考え込む。そして、うつむきながら一言だけ絞り出した。

 

「しかし――これ以上、妻に負担をかけてはいけないという思いのほうが、私には強かったんです。母の介護は、ほとんど妻がしてくれていましたから。今度は、介護する側がね、疲れすぎてしまってはいけない。根詰めすぎて、密室状態になるのも、よくないでしょう」

 

介護においても「ちょうどええ加減」に――。母を入居させたのには、文枝さんから妻へのそんな配慮があったのかもしれない。最後に、噺家としての次の目標は何ですか、と聞いてみると……。

 

「いや、そればっかりは、口に出すとね――。うん?『新婚さんいらっしゃい!』での転び芸!? それはライフワークだから、まだまだ続けます。最近、腰が痛いんやけどね。もう100の大台も見えてくる母には、一日でも長く生きていてほしい。『まだ母がおる』いうのも、安心して仕事ができる拠りどころになっているんです」

 

文枝さんに華々しい落語家人生を歩ませたのは、母の存在があったからに違いない。

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