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《僕は、ラグビーというものがどんなものかすら分からなかった。ラグビーは父と母のすすめで始めた。父と母はとてもラグビーが好きだった。そして、僕はラグビーをする事になり、激しい戦いを生き抜くことになった》

 

小中学校時代に所属していた『吹田ラグビースクール』の文集に、当時、中学3年生だった堀江翔太選手(33)は、そんな言葉を残していた。吹田ラグビースクールでコーチを務めていた林典宏さんは言う。

 

「彼は小学5年生のときに、うちのスクールにやってきました。当時から体は同級生よりもひと回り大きかったのですが、とてもおとなしい子で、最初はお母さんにしがみついていて、みんなのところに行こうとしなかったぐらいです」

 

世界の巨漢に果敢に立ち向かう、いまの堀江選手からは想像できない“気弱な少年時代”。なぜ両親は、彼にラグビーを始めさせたのだろうか。大阪府内に住む実母・則子さんに聞くと、少し笑って、こう答えてくれた。

 

「もともとはサッカーをやっていたのですが、いまひとつ楽しめていなかったようでした。主人自身は運動はしませんでしたが、ラグビーを見るのが大好きで。それで翔太にもラグビーを勧めたんです」

 

堀江選手の父・慎一さん(享年64)は、着物の営業マンとして全国を飛び回る日々を過ごしていたという。堀江選手が通っていた大阪府立島本高校でラグビー部の監督を務めていた天野寛之先生(61)は言う。

 

「ラグビーは、常にケガと付き合っていくスポーツです。高校時代にしても、親御さんの理解と応援がなければ続けていけるものではありません。ふだんの試合にはお母さんがお見えになっていましたが、一度、お父さんにもお目にかかったことがありました。堀江が結婚したときに、私の職場に奥さんの友加里さんを連れてきてくれたことがあったのです。そのとき車を運転していたのがお父さんでした。とても優しい雰囲気の方でしたね」

 

堀江選手が結婚したのは’12年。そして父・慎一さんが大腸がんでステージ4と診断されたのは’09年ごろ、いまから10年ほど前のことだった。堀江選手が帝京大学卒業後に、ニュージーランド留学へ行くことを悩んでいたときには、「お前が決めたんだったら行ってこい」と、後押ししてくれたという。

 

母・則子さんが続ける。

 

「(がん発覚後は)入退院を繰り返すような日々が続きました。でもトップリーグの試合も、遠いところには行けなかったのですが、関西で試合があるときには、できる限りスタジアムに足をはこんで応援していました。試合の後は、親子でいっしょに食事をして……。翔太がラグビーの話をするのを、楽しそうに聞いていました。やっぱり親として翔太の体のことも心配だったのでしょうね。『ケガだけはしないように』という言葉が、口癖のようになっていました。言葉数は少ないのですが、翔太にとって本当に意味のある、背中を押してあげるような言葉をかけるのは、いつも主人でしたね」

 

息子の活躍は、慎一さんにとって、がん闘病の励みになっていたという。

 

「主人は翔太の写真やポスターを病室に貼ったりするタイプではありませんでした。その代わりに、財布の中には、翔太がちっちゃいころの写真を入れて、いつも持ち歩いていたんです。それに翔太もトップリーグや日本代表としての重要な試合で活躍すると、いつもそのときのジャージを持ち帰ってきて、主人にプレゼントしてくれたんです。病室にいるときでも、主人は、そのジャージを楽しみにしていました」

 

’15年のW杯では日本代表が優勝候補である南アフリカを破る大金星を挙げたことがあった。

 

「試合の中継が深夜だったもので、私は寝ていたんです(笑)そうしたら主人が『えらいことになってるぞ!』と……。勝った瞬間は喜ぶよりも驚いて呆然としていました。帰国後に届けてくれた日本代表の桜マークがついたジャージは、いまも主人の仏壇のそばに飾ってあります」

 

10年間がんと闘った慎一さんが逝去したのは今年3月。堀江選手は息をひきとった父を見て「僕のプレーをいちばん気にしてくれていた」と語ったという。慎一さんは楽しみにしていた日本でのW杯を見ることができなかった。だが則子さんは言う。

 

「私が観戦に行くときには、何枚か主人の写真を持って行っているんです。試合に勝つと、その写真を振り回して喜んでいます(笑)」

 

“お父さん、翔太が勝ったよ!”、これからもそんな則子さんの声が、スタンドから聞こえてくることだろう。

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