(撮影:エンリコア/アフロスポーツ) 画像を見る

「僕は羽生結弦選手のことを一貫して『結弦』と呼んでいます。世界王者を呼び捨てにするなんてーーとお怒りの方もいるかもしれませんが、僕にとって結弦は、いまでも8歳のころの、あどけなくて人懐っこいままの子どもなんです」

 

そう目を細めるのは、羽生結弦(25)の元トレーナーの菊地晃さん(63)だ。羽生との15年にわたる日々と、長年の柔道整復師の経験で培ったメソッドをまとめた『強く美しく鍛える30のメソッド』(光文社)を12月19日に出版したばかり。

 

2人の出会いは、菊地さんが仙台市内で経営する「寺岡接骨院きくち」に、ジャンプの練習で足首を捻挫した羽生が施術を受けにきたことに遡る。20年以上前から怪我の予防のために、菊地さんは小・中学生向けの「体幹トレーニング教室」を近所の体育館で開いていたが、そこに羽生も通うようになった。サッカーや野球、陸上など、さまざまな競技に励む子どもたちとともに、羽生も体を動かした。

 

「体を動かすときは、中心軸を意識するように指導しました。その結果、体の軸が安定して、ムダな動作が少なくなり、バランス感覚がよくなった。でも、他の子どもたちにも同じように教えていましたから……。結弦が特別だったんです」

 

羽生は、人一倍“強くなりたい”“勝ちたい”という気持ちが強い少年だったという。

 

「『先生、練習中や試合前は、水をどうやって飲めばいいの?』『ウォーミングアップってどうすればいいの?』まだ小学生だった結弦は、よくそんなことを聞いてきました」

 

遠征や練習の時間が増えたため、中学校に入ると同時に羽生は教室から“卒業”する。それでも、練習後にはたびたび菊地さんのもとを訪れて、マッサージや整体などの施術を受けた。羽生に請われて、初めて試合に帯同したのは、2011年11月のグランプリシリーズロシア杯だった。

 

「じつは国際大会に帯同するのも、フィギュアを間近で見るのも初めてだったんですよ」

 

直前の練習で股関節を痛めていた羽生。菊地さんはホテルで、股関節のケアとテーピングを施した。歩くだけで痛みが出る重症に、菊地さんは出場を取りやめるように勧めたが、羽生は出場を強行し、見事優勝する。

 

「その瞬間を、僕は観客席から号泣しながら見ていました。日本人のファンの方も大勢いて『なんでこのおじさんは号泣しているの?』という顔で見られてしまった(笑)」

 

ロシアでの経験は、「結弦がこれまでの施術に対して与えてくれた“ご褒美”のようなもの」。そんなふうに考えていた菊地さん。翌年4月から羽生は練習拠点をカナダ・トロントに移し、2人が顔を合わせるのも、年に数度、羽生が帰郷したときくらいになった。しかし、ソチ五輪の直前である、2013年12月に福岡で行われた「グランプリファイナル」の3週間前に、羽生から菊地さんに連絡が入る。

 

《先生、お願いがあるんですけど、福岡のファイナルにトレーナーとして来てくれませんか?》

 

「スケート靴を履く前に、60分ほどのウォーミングアップするのですが、結弦は最近の試合ではしっくりとこないとのことでした。でも、私にはフィギュアスケートのウォームアップなんてわかりません」

 

そこで、菊地さんは自分がやっていた少林寺拳法の試合前のウォーミングアップを参考に、メニューを組んだ。すると、羽生はショートプログラムで当時の世界最高得点を更新し、グランプリファイナルを初制覇する。続く全日本選手権も、羽生は2位に20点もの差をつけて優勝した。

 

五輪確定を見届けて、「俺の仕事はここまでだ」と、満足して仙台に帰った菊地さん。羽生の父が1枚の紙を携えて訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。

 

「それは、オリンピック選手団やコーチが着るブレザーやジャージなどの寸法を書き入れる用紙でした。お父さんは『オリンピックについてきてほしいんです。1カ月と長期間になりますが……』と頼んできた。オリンピックのような舞台では専門トレーナーの方がいいだろうと思っていましたから、さすがに慌てましたね」

 

当時57歳、こうして菊地さんのオリンピック初挑戦が始まった。

 

「女性自身」2020年1月1日・7日・14日号 掲載

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