8月14日、『ファミリーヒストリー』(NHK総合)に出演した草刈正雄(70)。同番組では、草刈が亡き母スエ子さん(享年77)から「朝鮮戦争で戦死した」と聞かされていたアメリカ人の父が10年前まで生きていたことが判明。初めて知る数々の事実に涙する草刈の姿が話題を呼んだ。番組の最後で草刈は次のように語った。
「なんという日でしょう。本当に今日は幸せです。子どもの頃からモヤモヤしていたものが全部明らかになり、こんな幸せはないです」
草刈は’52年、福岡県小倉市(当時)で生まれ、4畳半の部屋で17歳まで母子二人で暮らした。
《僕が生まれる前に父は亡くなった。おふくろは写真を残さなかったんで記憶にないんです。でも、よく親父のことを褒めていました。変に悪口なんて言われていたら、グレていたかもしれないけど、それは偉かったです》(『FLASH』’16年10月18日号)
女手ひとつで育ててくれた母については、’17年に本誌のインタビューでこう語っている。
「母は、ひと言でいうと“すごく厳しい人”だったかな。典型的な“九州の女”。元気で芯が強く、怒ると本当に怖かった。(笑)でも、今思えば『父親代わりにならなきゃ』という思いもあったのかもしれませんね」(本誌’17年5月30日号、以下同)
番組によると、母は草刈を偏見から守るため身だしなみは人一倍気をつけさせていたという。また、草刈が道を外しかけると、厳しく叱ったそうだ。
《悪さをすると「あんた何しよんね!」とバットを持って追いかけてきました。よそで「親か警察か先生、どれを呼ぶか」と聞かれて「おふくろだけはやめてください」と言ったくらいです》(朝日新聞 ’19年7月7日付)
しかし、そんな“スパルタ母”も草刈がやりたいことは自由にやらせてくれたという。
「僕がモデルになるため上京するときには、母はまったく反対しませんでした。たった1人の子供と離れるのは寂しくて、内心は行かせたくなかったのかもしれませんが、『好きにしていいよ』と背中を押してくれました」
17歳で上京した草刈は、2年後に東京へ母を呼び寄せ、彼が36歳で結婚するまで一緒に暮らし、晩年も15年間同居した。草刈は強い絆で結ばれた母の言葉を今も胸に刻んでいるという。
「生前、母は『ありがとう、ごめんなさいと素直に言える人になりなさい』とよく言っていました。僕は娘たちにも、同じことをつねづね言って聞かせています。
歳を重ねれば重ねるほど、素直になるのが“勝ち”だなと思うようになりました。経験を積んでくると、変なプライドが身についてしまいがちなので、素直であり続けるのは難しいですよ。でも、そうした垢を削ぎ落として、謙虚に頑張っていきたいですね」
息子が誕生してから、自身が逝去するまでの57年もの間、夫が生きていることを隠し通し、一人で親の役割を全うした気丈なスエ子さん。この生涯の嘘は息子・草刈をまっすぐ育てるためのものだったに違いない。