【前編】「母の本当の子だったのかも」山村紅葉 没後30年…初めて小説を書いて気づいた母・山村美紗さんと「似ているところ」から続く
「私が『天蓋付きのベッドで寝たい!』と言ったら、翌日には母が手作りしてくれていたり。すごく大事にされているという気持ちがありました」
自由奔放で型破りなイメージのある山村美紗さんだが、作家になる前はとびきり愛情深い母親だった。
習い事も、やりたいと言えば何でもやらせてくれた。バレエ、フィギュアスケート、ピアノ……。「全部やらせてもらったから、自分に向いていないとわかった。それはよかった」と笑う。
ところが、小学校に入ったころから母は変わっていった。美紗さんが作家としての仕事にのめり込むようになったのだ。
「食事もすべて、祖母やお手伝いさん任せに。あんなに愛してくれていたのに、急に梯子を外されたというか、放り出されたみたいな感じでした」
中学生になるころには、執筆中の母の気を散らしてはいけないと、紅葉さんから話しかけることはほとんどなくなった。相談もせず、進路も自分で決めた。学校の三者面談にも、美紗さんは「本人に任せていますから」と姿を見せなかったほどだ。
かと思えば、自分が取材に行きたくなると、娘の都合などお構いなしだった。高校時代、期末試験直前でも「旅行に行くよ」と、有無を言わさず連れていかれた。
「私、一夜漬けの紅葉で有名だったんですよ(笑)。だから『月曜日から試験なんだけど』と言っても、『直前に勉強したってどうにもならないでしょ』って」
家族旅行で北海道へ行けば、母がカメラを向ける。てっきり自分を撮ってくれていると思い、紅葉さんが笑顔でピースをすると、レンズが捉えていたのは、その後ろの警察署やパトカー、駅の時刻表。すべてが小説の資料になった。
母の関心が小説へ移った寂しさに加え、紅葉さんを傷つけたのは、そんな母の言葉だった。小学生のころに詩のコンクールで入選しても、
「なんで特選じゃないの?」
「こんな下手な文章で恥ずかしい」
褒められるどころか、??られた。表彰式に来てもらったこともなければ、賞状を飾ってもらったこともない。中学生のとき、自分の詩が新聞に載った際には、母に見つからないよう、新聞をどう隠そうかと考えたほどだった。
さらに、母はことあるごとに、「あなたは拾ってきた子だから」と言った。三条大橋の下で拾った、鴨川を流れてきた……。
母とは性格がまるで違った。華やかで社交的、明るい太陽のような母。いっぽう紅葉さんは、おっとりしていて、部屋の片隅で一人、本を読んでいるような子だった。顔も似ていなかった。冗談とわかる年齢になっても、心のどこかで「本当にそうなのかもしれない」と思い続けていた。
そんな母への見方が変わったのは、大学生になってからだ。
パーティや銀座のクラブ、祇園のお茶屋、歌舞伎。母について歩くうち、家庭の中では見えなかった、仕事をする美紗さんの姿が見えてきた。
「母が生き生きしていたんです。社会的に評価されれば、女性にもこんなに輝ける場所があるんだって。母がごく普通の主婦だったら、こんな経験はできなかったでしょ。少し憧れに変わりましたね」
大学在学中には、母の勧めもあり、思い出作りのつもりで女優も経験した。それでも卒業後、選んだのは芸能界ではなく、国税専門官という堅実な道だった。男女雇用機会均等法ができる前。女性が一生働き続けられる職場はまだ限られていた。政治、経済、法律を学んでいた紅葉さんにとって、国税専門官はその知識を生かせる仕事でもあった。
「国税の仕事をしていたころは、私のキラキラ輝いていた青春です」
母とは違う世界で手にした、自分だけの人生。天職だと思った。だが、結婚を機にその天職を手放すことになる。
大蔵省(当時)のキャリア官僚だった夫は、女性の国税専門官を増やすべきだと主張する人だった。当然、結婚後も働くことを応援してくれると思っていたが、ある日、思いがけない言葉が飛んできた。
「いつ辞めるの?」
驚く紅葉さんに、夫は言った。女性が働くことには賛成だけれど、自分の妻には家にいてほしい。幼いころに父親を亡くし、母親が働いていた夫には、「朝、味噌汁の匂いで目を覚ますような家庭」への憧れがあった。
「私自身も中高生のころ、母にお弁当を作ってほしいとずっと思っていたんです。でも、母は一度だって作ってくれなかった。だから、自分は専業主婦になって、子どもにはこんなお弁当を作ろう、手編みのニットを作ってあげたい、そう考えていたことを思い出して、きっぱり辞めました」
こうして26歳のとき、芸能界からも、国税専門官という仕事からも離れ、専業主婦になったのだ。
