「建築物の品格は人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある」とは、建築家ウィリアム・メリル・ヴォーリズ(1880〜1964)の言葉です。
これは私に、もし自分が建物だったらどんな建物だろう、都会にそびえ立つビル群は、もし人に例えるならどんな人たちだろう、と、ふと考えさせてくれる言葉です。そして懐かしい母校の佇まいを思い起こさせます。ヴォーリズ建築事務所が手がけた東洋英和女学院は、外観も重厚な趣きと品格を保っていたと思います。そして内面は華美な装飾はなく、意外と堅実でした。いたずら好きで流行に敏感な都会の少女たちを包み込む、寛容さと静けさを湛えていました。
▼竣工まもない頃の東洋英和女学院外観
(C)東洋英和女学院史料室
1905 年(明治38)、24歳のヴォーリズは、アメリカのYMCAから派遣された英語教師として来日し、滋賀県立商業学校に着任しました。オルガンが上手で、自然を愛し、詩心とユーモアに溢れた彼のバイブルクラスは 放課後にも関わらず、全校生徒の3分の1が集まるほどの人気でした。その影響力がかえって問題視され、2年で教師は解任となります。
しかし、なおも琵琶湖湖東の近江八幡にとどまり、キリスト教伝道活動を続けました。そして1910年(明治43)ヴォーリズ合名会社(のちに近江兄弟社と改名)を設立。メンソレータムやピアノの輸入販売事業でも知られていますが、建築事務所を開き、主にアメリカ西部におけるスペイン系移民の伝統的な様式———スパニッシュ・ミッション・スタイルの装飾——を取り入れ、最新の設備を整えた住宅を数多く手がけて、日本人の生活の近代化に大きな影響を与えました。
といっても、彼は実業家ではありません。また、プロの建築家でもありません。アメリカで建築家を志した時期はありましたが、大学時代に伝道活動に使命を感じて、哲学科へと転向しています。
彼にとって、事業は伝道の資金集めであり、同時にキリスト教の精神を伝えるための表現でした。本国アメリカの建築技師の友人レスター・チューピンやヴォーゲル、教員時代の教え子の吉田悦蔵、村田幸一郎ら優れたスタッフがその理念に共鳴して彼のもとに集まっています。
こうしてできたチーム・ヴォーリズ——ヴォーリズ建築事務所———は資本主義とは別次元で、アカデミックな枠からも開放され、プロテスタントの組織たるいずれかの教会に属するでもなく、日本の建築史上も、プロテスタント伝道史上も位置づけの難しい、ユニークで且つ確かな足跡を残した共同体でした。特に教会堂やミッション・スクールなどのミッション建築に本領を発揮しています。
▼校内のチャペル 簡素ではあるが均整のとれた美を体現している。祈りの部屋としてふさわしい。
(C)東洋英和女学院史料室
ヴォーリズは想像力の人でした。
言葉と綿密な平面スケッチで計画を伝え、それが専門職の仲間達によって計算され、図面化され、具現化されていきます。
建築物の中に集う人々のことを考え、まず安全(基礎)を第一とし、心身の健康(光と風)、ひとつひとつの部屋の目的とそれをつなぐ動線そして全体としてのバランスを重んじました。規則や法則によって定めるのではない形や色彩、材料、設備に至る総合的なバランスが、精神的にも、道徳的にも人々にとって良い感化を与えると信じていたからです。
華美な装飾はむしろ醜悪であり、窓枠、照明器具、暖炉、扉、家具といったディデールに抑制のきいた美を選び、「永年の間に人々の内部に洗練された趣味とともに、美の観念を啓発すること」(W.M.ヴォーリズ『神戸女学院新築校舎建築の要素——設計者の言葉——』より)を建築物の最も重要な目的のひとつとしていました。
ヴォーリズが描いた東洋英和女学院は、1933年(昭和8)に竣工されました。祖母村岡花子は1913年(大正2)に卒業していますので、それ以前の木造4階建ての時代ですが、母と私はこの校舎を体験しています。
六本木の喧騒とは全く別世界。中学1年生で初めて門をくぐった時、校内はとても薄暗く思えました。そして、薄暗い廊下ですれ違う高校生の先輩たちはとてもきれいで大人っぽく、垢抜けて見えました。
中学生のうちは、靴下がずり落ちていたり、先生にはバレない範囲でパーマをかけてみたり、カバンに大きなステッカーを貼ったりしたものですが、高校生になると自然と、身なりを整えることを覚え、虚飾はむしろかっこわるいと思うようになります。在学当時は気づかなかったのですが、それは建物から醸し出される雰囲気によって洗われていったものであったのかもしれません。6年間を過ごすうちに、次第に空気に馴染んでいくのです。
年相応の素の美しさ、端正なものの価値というもの、つまりはヴォーリズのいうところの「洗練された趣味」と「美の観念」を青春時代にあの校舎から教えてもらったような気がします。
参考文献 ヴォーリズの西洋館 山形政昭 淡交社
ヴォーリズ建築の100年 山形政昭監修 創元社
プロフィール
村岡 恵理(むらおか えり)1967年生まれ。作家。翻訳家村岡花子の孫。東洋英和女学院高等部、成城大学文芸学部卒業後、雑誌の記者として活動。2008年、『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を上梓。本著が、2014年前期のNHK連続ドラマ「花子とアン」の原案となる。絵本『アンを抱きしめて』(絵 わたせせいぞう NHK出版)、編著に「村岡花子と『赤毛のアン』の世界」(河出書房新社)など多数。日経ビジネスアソシエにエッセイを連載中。