それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?
著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。
経典、あるいは教典ということでは、仏教には限られない。仏教以外の宗教においても、教典はとても重要な役割を果たしている。
その代表がすでにふれた、キリスト教の聖書である。
この聖書は二つに分かれていて、旧約聖書と新約聖書がある。出版された聖書のなかには、両方が含まれるものもあれば、2分冊になっているものもある。最近岩波文庫から刊行された『文語訳新約聖書』の場合だと、新約聖書だけではなく、旧約聖書のなかの「詩篇」が合わせて収録されている。
新約聖書の方は、イエス・キリストのことをつづった「福音書」からはじまるものなので、キリスト教徒にとってしか意味をもたないが、旧約聖書の方は、キリスト教徒ばかりでなく、ユダヤ教徒にとっても教典になっている。
ただし、旧約と新約という区別はキリスト教徒が行っているもので、ユダヤ教徒にとっては意味がない。ユダヤ教徒は、旧約聖書の最初にある「創世記」からはじまる5つの文書をとくに重視していて、それを「モーセ五書」、あるいは「トーラー」と呼んでいる。トーラーは、ヘブライ語で教えを意味している。
私たちは、キリスト教徒は、聖書を熱心に読んでいると考えている。実際、そうしたことを行っている信者もいるが、最近になるまで、キリスト教徒は必ずしも聖書を読むことを重視してはいなかった。とくにそれは、キリスト教のなかでもカトリックについて言える。
まず、聖書は最初、ヘブライ語やアラム語で書かれていて、やがてギリシア語に翻訳された。中世ヨーロッパでは、ラテン語の聖書が一般的だった。
ラテン語は特別な教育を受けた人間だけが読めるエリートの言語だったので、ヨーロッパの一般の民衆は聖書を読むことができなかった。
それを、それぞれの国、地域のことばに翻訳するきっかえを与えたのが、宗教改革を行ったマルティン・ルターで、ドイツ語訳の聖書を作った。そこから、プロテスタントでは、聖書を読み、信仰を深めていくことが行われるようになる。
一方、カトリックでは、その後も相変わらず聖書はラテン語のままだったし、もっとも重要な儀式であるミサもラテン語で営まれていた。
つまり、教会でミサに参列した一般の民衆は、ラテン語で唱えられる祈りのことばを、意味が分からないまま、ただありがたがるしかなかったのだ。
これは、葬式で意味の分からないお経を聞かされている日本人とまったく同じ状態だ。
ミサがラテン語ではなく、それぞれの国のことばで営まれるようになるのは、1960年代はじめに行われたバチカン公会議以降のことである。
それで、ミサで何をやっているかが誰にでも分かるようになったのだが、信者のなかには、有り難みが薄れたと言う人たちもけっこういた。
それは教典についても言えることで、意味がすっと分かってしまうと、かえって神聖さが失われてしまうのだ。
それからすると、お経は意味が分からない方がいいということにもなってくるが、やはりそれではもったいない。
なにしろ、仏教の経典は膨大な数にのぼり、そこには、広大な信仰の世界が広がっているからである。
一度は、その中身にふれてみるのも悪くないし、仏典のなかみが分かってくると、葬式でお経を聞く機会にふれたとき、いったいなぜこのお経がここで唱えられているのか、その理由も分かってくる。
意味が分かるよう、お経もすべて現代語訳にして、それを唱えたらいいのではないかという考えもあるかもしれない。
けれども、お経を集団で唱える儀式として「声明」というものもある。声明は、とくに天台宗と真言宗で盛んで、それは「天台声明、「真言声明」と呼ばれるが、修行を経てきた僧侶たちの唱える声明は、節がついて、音楽になっている。聞いていて心地がいいが、やはりそれは漢語で唱えられるからで、もし現代語になったとしたら、声明からは厳かな部分が途端に失われてしまうことだろう。
お経が今日にまで受け継がれてきた理由の一つには、やはりことばとしての美しさというものがかかわっている。
それは、インドで作られた経典を中国語に訳した中国人の僧侶や、インド人の僧侶の力が大きいが、日本人は、漢文を読み下しにしてそのまま読む方法を開拓することで、翻訳をしないでも、その内容を理解してきた。それによって、漢訳仏典の優れた訳文をそのまま味わうことができるのだ。
では、次回から実際にお経を読み、その内容について学んでいくことになるが、なにしろ、仏典は膨大で、とてもその全体に目を通すことは不可能である。
あまりに数が多すぎて、どこから手をつけたらいいのか、それが分からなかったりもする。その際に一つの目安になるのが、いくつかある信仰の系統である。
それは、日本に現存する宗派とも重なりあってくるが、大きく分けると、日本仏教の流れは、「法華経信仰」、「密教信仰」、「浄土教信仰」、それに「禅」の4つにまとめることができる。
この4つの流れは、ときに重なりあったりもするが、それぞれ信仰の内容に違いがあり、めざすところも異なっている。
そして、それぞれの信仰がいかなるものかを説いた経典が個別に存在している。そうした経典を見ていくと、信仰の中身をより深く理解することができる。
ただその前に、仏教の流れ、仏教の歴史的な展開をおおまかに理解しておく必要がある。
実はそれに恰好の経典がある。
それが『般若心経』だ。
短い『般若心経』には、膨大な般若経典のエッセンスが示されていると言われるが、私の見るところ、それにとどまらない。
『般若心経』は、部派仏教、あるいはここでは小乗仏教と言った方がいいのかもしれないが、そこから大乗仏教が生まれ、密教に行き着くまでの歴史の流れが示されている。
だからこそ、お経について見ていくには、まずは『般若心経』を読んでいく必要がある。
『般若心経』は、一番短い経典だが、その価値は計り知れない。
だからこそ、日本人は『般若心経』をとても重視してきたのではないだろうか。
まずは『般若心経』から、お経の世界に入っていくことにしよう。