<この物語は、ある霊能力者をモチーフにして描かれたフィクションである。>
「『あっ』って…。明美、おまえさぁ、さっきトイレのドアを開けたときに『あっ』って言ったよな。居たのか?」
やはり健作は、とっさに明美が口にした声を聞き逃してはいなかった。
「…見えなかったと思うけど、居たのよ…女の人が」
「ちょっと待ってくれよ。ってことは、今朝も居たってことか?」
健作は、今朝入ったときも彼女が居たのかと思うと、なんとも居心地の悪い思いをした。
「それはわからないわ。…でも大丈夫よ。邪悪というほどの霊じゃないから。ちょっと悪戯する程度の…人が現れればたちまち居なくなっちゃう程度のモノだから」
「いや、それがどの程度のお方かは知らないけどさ、こう頻繁に現れるのにはなにか理由があるんじゃないのか?」
たしかに、今までこれといった霊的な現象に出会ったことも無い健作にしてみれば、怪しい現象に次から次へと見舞われること自体が異常事態に違いない。
稀有な霊能力を持つ女を娶った男として、これまでに経験したことの無い警戒心と好奇心を掻き立てられる。しかし、警戒心ならまだしも、ほんの僅かだろうと好奇心を抱くなどとんでもないことだった。
まだこの時点では、ただ遺伝的に高い霊能力を持って生まれてきてしまった女と、初対面の相手に亡羊とした印象を抱かせてしまうお人好しな男は、この後に巻き込まれる怖気立つような危難を想像すら出来ないでいた。
追われる男
翌日は、母の作った朝ごはんを食べる健作を横目に、泥水の入ったコーヒーカップを手にした明美の、苦虫を噛み潰したような朝のバリトンから始まった。
「ねぇ健作、…今日は早目に終わらせるから、少し付き合って…」
「いいけど、そんなに面倒臭いことなのか?」
「なんで? 別にそんなことないわよ」
「あ、そ。面倒臭そうな顔してるからさ」
「朝だからね。…ごめん」
「で、何時ごろ出るんだ?」
「そうね。…5時くらいには動きたいな」
「了解」
そんな朝のやり取りの後、昨日と同じく日がな一日義母との会話を楽しんだ健作はリーディングが終わるのを待っている。
そして午後5時、本日のラストとなる親子連れの相談者が帰ると、明美が座敷から出てきた。
「あ~疲れた。やっと、終わった」
「お疲れ様。明美さん大丈夫なの? 結構疲れるんじゃないの?」
母が明美におべんちゃらをしている。おそらく、今日は一日、健作を捕まえて鬱憤晴らしをした引け目なのだろう。すかさず母は、眠そうな目をした明美に熱く濃い緑茶を淹れるとテーブルに置いた。
「お疲れ。じゃあ、ひと休みしたら出かけようか」
待ち侘びていた健作が、いかにも疲れ気味の明美の指示を待っていたかのように言葉をつなぐ。疲れてはいたが、それでも今日は出かけないわけにはいかない。明美には、この数日続いているおかしな出来事が単なる悪戯などでは無く、もっと恐ろしいことが起きる予兆に思えてならなかった。それを確かめないわけにはいかない。
父の愛車を駆って辿り着いたのは『蛇の淵』。時刻は、午後6時10分。夜の闇が迫る山中の道路端に、咳込むようにブルッとボディを揺すらせてホンダライフ360を停めた。
「いいんだよな、ここで。でも、こんなところで待って出て来るのか?」
リーディングを終えた明美を助手席に乗せ、『蛇の淵』の立て札がすぐそばに見える停車スペースに車を停める。駐車スペースでこそ無いが、この時刻にこの山中で、車をしばらく停めておいても誰かに咎められるとは思えない。
昨夜は、結局満足出来る話が出来なかった。だからか今日一日健作は、なんとなく消化不良な感じだったが、そんな気分を察したのか明美から夜のドライブを提案してきた。ドライブといってもロマンチックなものではない。ロマンチックどころか、明美はどうやら並々ならぬ覚悟を決めているようだ。「蛇の淵に行く」と言い出した明美に反射的に問い返そうとした健作は、その真剣な眼差しに気を呑まれてしまった。
『蛇の淵』に来るのは三回目だ。一回目こそ通りがかっただけだが、二回目はここと思い定めて足を運んだ。そして、最初に目にした子どもたちの霊が何者かに追われていたのではないかと、邪霊ではなく清らかな霊ではなかったかとの結論に達した。なぜなら、それほどに『蛇の淵』は清浄な場所だったからだが…。その結論は今も変わっていない。変わっていないどころか、あのときは単なる仮説でしかなかった「追う者」の存在が、ここに来て大きくクローズアップされてきたのだ。それも、子どもたちの霊とは全く関わり無く、あろうことか明美たちが暮らす家にまつわる形でだ。しかも、彼ら…邪悪な霊と思われるモノどもが狙い定めた標的は健作なのだ。当の健作は、まだそうとは知らない。
健作にとっては気紛れに始めた散策でしかなかったのだろう。数日前に訪れたという大沢池の古刹は、地元でも有名な心霊スポットで、明美などは通りすがりに目を向けるだけで吐き気に見舞われる行ってはならない場所だ。明美が思うに、子どもたちの霊体を追う邪悪なモノどもは、おそらくは日中はその辺りに巣食っているに違いなく、そんな場所に無警戒な健作が現れたものだから、そこに巣食う邪悪なモノどもの興味を引いたに違いない。もしかすると健作に残留する、明美の微細な波動を感知したのかも知れない。そして、戯れに健作に憑いて来てみれば、そこにはいつの頃からか結界が張られており、家の中に入ることすら叶わず、周囲をうろつき使役する弱き霊どもを送り込んできたに違いなかった。どうやら祖母の張った結界は、大きく凶暴な霊体を阻み、隙間から潜り込める程度の邪霊しか潜り込めないようだ。
そして今夜、いよいよ明美は、現れるかも知れない邪悪なるモノどもを確認するべく健作と二人で車中に身を潜めていた。確証は無いが、それでも今夜、明美は邪悪なるモノどもに出会うことを、起き抜けに見たビジョンで知らされている。
そんな出会いがあるとすれば、それはここしか考えられない。イヤもう一か所。先日健作が立ち寄った大沢池の山中の古刹だが、さすがにそこに行くには、まだ明美は心の準備が整っていなかった。
逃げ惑う子どもたち
「そんなに都合よく現れたりするのか?」
30分が経過した。そろそろシビレを切らした健作が帰りたそうにしている。
辺りはとっぷりと闇に沈み、さっきまで聞こえていた夜烏の声もしない。50メートルほどの間隔で点いている街灯は、そこだけをぼんやりと浮き上がらせるだけで、逆にその先の闇を一層深いものにしていた。そんな闇の中でも、濃淡で木立や茂みは見て取れる。左右に迫るはずの山裾も闇に沈み、狭隘な谷そのものが無限を思わせる無明の荒野となって迫って来るようだ。
「なぁ、ずっとこうしてるつもり…」
「しっ! 黙って!」
間延びした健作の「…なのか」は明美のするどい一言に掻き消された。吐き出すはずの紫煙まで呑み込んだ健作の、薄ぼんやりとしたタバコの火が、ハンドルを握る手の位置を教えている。
「……歌ってるわ…」
健作には聞こえないが、明美には聞こえるのだろう。シフトレバーに重ねた明美の右手が微かに調子を合わせている。
「…いやだ。この子たち追われてるわ…」
そんな明美の声に健作も、そこに何かを見出そうとフロントガラスの向こうに広がる闇に目を凝らしてみるのだが、悲しいかなその目には、傾いた木の立て札に『蛇の淵』の文字がぼんやりと浮かび上がって見えるだけだ。
それは、あの日何も知らずに目撃した、遠足などとはかけ離れた、切羽詰った童の姿だった。仮説とはいえおよその目途を付けた上で見る光景は、明らかに子どもたちが何者かに追われて逃げ惑う姿だ。
白い裾短の着物を纏ったオカッパ頭の童が5~6人も駆けてくる。駆けては来るのだが、その足元には暗がり…。
宙に浮いているというには余りに力学的な動きは、浮いているというよりも駆けると言ったほうがいいかもしれない。その証拠に着物の裾がハタハタと闇に舞い、そのスピードは、人間の子どもが走るのと変わらない。綺麗に列を成しながら、頭だけが不規則に向きを変える。怯えているのか、追う者の姿を確かめようと何度も後ろを振り返っているようだ。…と思う間も無く、子どもたちを追って来た夜よりも濃い漆黒の塊が三つ、こちらはユラユラと漂うように迫って来る。子どもたちに比べて、こちらは漂っているように見えるが、それでも凄いスピードなのだろう見る間に闇を縮めてくる。
貪る邪霊
一人二人と子どもたちが淵に吸い込まれて行く。それを見つめる明美は、危難を逃れた安堵からなのだろう、子どもの姿が淵に消えるたびに健作の手を強く握り締める。
そしていよいよ、最後尾の子どもが淵の底をめがけて縁から離れたかと思いきや、それと同時に、物凄い勢いで飛び掛った陽炎が、異様に長い紐のような触手を伸ばしたかと思うと急ブレーキでもかけたように淵の手前の暗がりに垂直に突き刺さって止まった。まさか本当に突き刺さったわけでもないだろうが、見ていた者が他にもいれば、やはり同じく突き刺さったように見えたに違いない。それほどに、子どもたちに追い迫る陽炎たちの勢いは凄まじかった。
そして子どもたちは、まるで飛び込むように谷の淵へと消えて行き、今にも追いつこうとしていた三体の陽炎は、淵の叢に突き刺さったままユラユラと揺れている。…いや、中の一体が細長く伸ばした触手を縮めると、なんとそこには真っ白い靄が、まるで絡め取られた綿菓子のようにぶら下がっていた。
おそらくは最後尾を走っていた子ども霊だろう、真っ黒な触手に絡め取られた白い靄は、手足と思しき四本の細長い靄を激しく動かしている。それがどれ程の力なのか、子ども霊の抗う力などものともしない陽炎どもが三体。互いに先を争い激しくぶつかり、おぞましい咀嚼音を響かせながら、靄のように柔らかな綿菓子に、端から噛みつき呑み込もうとしている。そんな禍々しき三体は、揃って追い駆けて来たにもかかわらず、いざ獲得したそれは奪った者勝ちと言わんばかりに、隣り合わせた三体が物凄い勢いで絡み合い奪い合い、見る間に三つの影は一個の大きな陽炎と化してしまった。
その様は、まるで太古の肉食巨獣が小型のげっ歯類でも捕食するような、暴走する食欲に衝き動かされるままに獲物を引っ張り合い、噛み千切るようにその肉を引き裂き、瞬く間に子ども霊の姿は消滅してしまった。
後はもう何も無かったかのように、陽炎どもはその身をまた三体に別けてその場に漂っている。
ただ瞬く間のその間に聞こえてくる、歯噛みとも歯軋りともつかない不気味な擦過音と、その身を引き千切られながら呑み込まれて行く子ども霊が漏らす悲鳴が、その様子を目にし耳にすることの出来る明美の臓腑を抉った。
隣に座る健作には、この漆黒の闇の中で一体何が起きているのか見当もつかなかったが、握り締めた明美の手の信じられないほどの強さや吹き出す汗から、かなり緊迫した状況であることは伝わってきた。
闇の中に一層暗い漆黒の陽炎が三つ、そのシルエットから地団駄を踏むように悔しがっていることが、何度も淵の底を覗き込む様子でわかる。ついさっき、逃げ遅れた子ども霊を呑み込んだばかりだというのに、もはやそんな記憶も無いのだろう。ユラユラと揺れながらも互いに顔(顔は無い)を見合わせては、子どもたちが消えた辺りに影を伸ばしては弾かれたように引っ込める仕草を繰り返している。そんな様子からも、そこにはかなり強力な結界が張られでおり、邪悪なるモノの侵入を許さない場所だということがわかった。
おそるべきは、子どもたちが視界から消えようとする辺りから、明美の胃の腑の辺り…第四のチャクラが絞り上げられるように悲鳴をあげていることだ。
それは、明美がこれまでには味わったことのない、遥かに強力で凶悪な波動の成せる技だった。
審神者(さにわ)
審神者とは、神託を受け、神意を解釈して伝える者のこと。物語のヒロイン・明美がまさにそれで、近現代においては、取り憑いた霊の正体を見定め、その正邪を判断する者の事を言う。スピリチュアリズムに傾倒するなかで、ときに肉眼では見えない何者かの言葉や指示を受け取ることができるようになる人がいる。しかし、重要なのは、その言葉を何者が発しているか、である。発信元が低級な動物霊や邪霊の場合、その言葉をにわかに信じ、惑わされることで、思いもよらぬ事態に陥ってしまうこともある。では、その発信元の正邪を見分ける方法は……。真印さん曰く「自らを大仰に名乗ったり、即物的な約束事を安易にする者は要注意」という。「冷静に考えれば分かることですが、時空間を超越した存在が、今世のあなたの財布の中身にばかり言及することは考えられない。正しく高次からの声を聞き取る者ならば、遙か世代を超えた未来を案じて様々な指示を下さるのもの」(真印さん)。審神者の、またその発信元の正邪を見極めることに自信のない人は、簡単に信頼を寄せぬことが肝要なのだ。