「現地のことを考えたら、食べ物を残せなくなりましたね。ぜいたくが申し訳なくなって。過酷な状況に長くいると、人に優しくなったりもします。あと化粧もしなくなりましたね(笑)」

 

こう語るのは、『国境なき医師団日本』会長の黒崎伸子さん(56)。ふだんは、長崎市ののどかな住宅街で診療所『黒崎医院』の開業医をしているが、ひとたび要請があれば、銃撃戦が日常化している無法地帯へも躊躇なく飛んでいく。スリランカ、ソマリア、イラク、シリアと瀕死の患者が放置されている場所があれば、どこへでも。その“覚悟の旅”は、父の書棚で『外科手術』の本を見つけたときから始まったーー。

 

’57年1月16日に長崎市で生まれた伸子さん。父親の勇さん(84)は開業医で、元看護師の母親の昌子さん(82)が入院患者の食事の世話をしていた。かつては19床の入院施設があり、住み込みの看護師もいる大所帯。一家も病院の建物内で生活した。そのため、幼いころから人体に興味を抱いたのも自然だった。

 

「父の書斎で外科手術など、医学書の写真を眺めるのが好きでした。眼科のページの目玉の写真だけは苦手でしたけど(笑)」

 

小学校のころから決めていた医学部受験。当時、地方都市では医師を目指す女性は少なく、その年に長崎大に入った120人のうち女性は8人。現役合格は伸子さんを含めてたったの2人だった。小児外科を選んだのは、母親や家族の声を聞くには女性が向いているとの理由のほかに、「九州大の病院長にまでなった水田祥代先生の存在もあり、女性でもトップになれる世界」と思ったからだった。

 

東京女子医大病院や浜松市の病院などで研修後、長崎大医学部へ戻ってからは、若手の女性小児外科医として、幼い患者や親たちと真摯に向き合った。そして、大学で講師の肩書きがついた40歳を過ぎたころ、研究の壁にぶつかる。患者のいる現場にいたい伸子さんならではの悩みだった。

 

「小児外科医として長崎大初の女性教授になることも考えた私ですが、臨床で手いっぱいになり、研究や論文がおろそかになってしまい、このままでいいのかとーー」

 

そんな悶々とした思いを抱えながら診察をしていた’00年12月。医師になって20年という節目だった。病院の廊下の掲示板にあった1枚のポスターに目が止まる。〈あなたを待っている人たちがいます〉という国境なき医師団(以下・MSF)の募集ポスターだった。気づいたら事務局に電話していた。

 

翌春からのMSF参加が決まったとき、大学の担当教授から「あなたは国立大学の職員なんです。国家公務員はNGOの活動で休むことは許されない。行くのであれば辞職願を出してください」と言われた。4月、初めての任地である民族紛争で混乱するスリランカへ。出発に際しては、貯金通帳と生命保険の証書の場所を母親に伝えた。新人とはいえ、30代前半の医師が多いなかで43歳と遅いスタートだった。

 

「銃創なんて診たことがないし、大学でも習ってません。レントゲンを撮って体に残った銃弾を取り除こうとしたんですが、先輩医師から『そんなことやってたら、次の患者に間に合わない』と。戦闘があって運び込まれるのは兵士より一般市民。6〜7割が女性や子供でした」

 

’08年、東アフリカのソマリアへの派遣が決まったときに父親から『黒崎病院』を引き継ぐ。’10年3月、MSF日本の会長に就任。このころ、診療所の2階で両親との同居を始めた。

 

「もう高齢ですし、どちらかが倒れたら、海外派遣も無理です。今回が最後になるかもと、そんな思いで今年5月にシリアに渡りました」

 

中東のシリアでは2年前から政府側と反政府側との間で内戦が続く。昨年には、ジャーナリストの山本美香さんが銃弾に倒れている。派遣されたのは北部のイドリブ県。

 

「運ばれてくる兵士のほとんどが反政府軍でしたが、断ったことはありません。どちらも同じ命。医療を求めている人を救いたいだけなんです。全力で治療するのは、なにもMSFに限ったことではなく、医の倫理の大原則。だから、ニーズがあるところに行く。頼まれたら断らない。それが私の中の理想の医師像です」

 

戦場に行くことは怖くないのか、との問いに「そんなこと考えたこともなかったわ」と、さらりと言ってのける伸子さん。“覚悟の旅”はまだまだ続くようだ。

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